Updated
スナッグゴルフ全国大会の翌日は、社会学習見学会を実施(8月18日)【動画UP】
当日になって、ふいに選手会長の気が変わった。「スナッグゴルフ対抗戦JGTOカップ全国大会」を終えた翌日18日日曜日は本当は朝のうちに、帰路につく予定だった。「でも、やっぱり最後まで、付き合おうかな、って」。再び子どもたちの前に現れた。
同大会は11年目にしてここ宮城県の仙台で開催にこぎつけたとき、池田勇太はそれと連動してもうひとつ、大きな行事を用意していた。
「この機会に子どもたちにも被災地を見てもらおう」と計画した社会学習見学会は、つい前日に一緒にスナッグゴルフで汗を流したお友達と、みんな一緒に山元町と亘理町を見て回る。「日本の歴史を変えたといってもいいほど大きな被害を受けた場所を、一度でも見てもらうことで子どもたちの心にもきっと強く刻まれるものがあると思ったので」。
もっとも当日の引率は、JGTOのスタッフに任せるつもりで自分は当初、19日の月曜日に控えた母親のゆみさんの誕生パーティの準備など、色々とスケジュールを組んでいたのだが、結局すべてキャンセル。
「なんで気が変わったかって? いや、何でもなにも・・・。ただ、やっぱり俺も一緒に行こうと思っただけだよ」と、素っ気なく応えたが、本音はもちろん「子どもたちのため」に他ならない。
まだ復興途上の町は、一見穏やかな田園風景にも見える。しかし、それは単に、無造作に生い茂る草木に覆われているだけで、その下の大地は未曾有の被害を受けて、思いがけず大きな窪みがあったり、深い地面の亀裂が隠されていたり。その中を子どもたちに歩かせるのだから、大人がちゃんと見ていてやらなければならない。「そこはダメだ。こっちから回れ!」と、ときおり大きな声で子どもたちを誘導しながら、注意深く被災の町を歩いた。
子どもたちを2つのグループに分けて、2つの町を入れ替わりで回る2行程で、先に亘理町から回るルートを選んだ池田は、震災の語り部のボランティアをつとめる飯沼晴男さんのガイドに耳を傾けながら、段々と表情を険しくしていった。まだ、ちっとも復興が進まない町の様子を眺め渡して、誰にともなく「ひでえ」と、小さく吐き捨てた。
母校の東北福祉大から数えて5年間を過ごした“第二の故郷”が心配で、震災直後も自分にも、何か出来ることはないかと何度となく、この辺りを見て回った。当時は見渡す限りの瓦礫の山で、あのころと比べたらそれは確かにちょっとは良くなっているのかもしれない。「でも本当は、ここにはず〜っと、たくさんの家があったんだ」。今はほとんど人影もなく、見渡すばかりの草原に、「子どもたちにはあの悲惨さも、表面だけ見ているだけではイメージしにくいかもしれないね」と、ぽつりと言った。
午後からは、震災で閉校に追い込まれた山元町立中浜小学校の旧校舎にも、子どもたちと一緒に訪れるつもりだったが思いがけず時間が押して、飛行機の時間が来てしまった。
本当に現状が伝わりきったかどうか。確認出来ないまま半信半疑で子どもたちとサヨナラをした池田のためにも、そのあとの子どもたちの様子をもう少し詳しく書かせていただく。
東京都の大田区立池雪(しせつ)小学校4年の安増比奈子さんは、旧校舎の屋上でガイド役の山元町教育委員会の森憲一・教育長がメガホン片手に解説してくださった中でも、もっともつよく印象に残った言葉を、自由研究用のノートに丁寧に書き留めた。
「ひなんした時 だれもないたり わめいたり しなかった」。
中浜小学校は、海のすぐそばに建っていた。遠くから眺めたら、特に何でもなく見える建物も、目の前にするとガラスというガラスが割れ、玄関の天井は抜け落ち、内壁は砕け落ち、鉄杭から何から剥き出しだ。
隣の体育館はあまりの惨状に、今は解体されてすっかり更地になっている。旧校舎の中も今は、廃屋のがらんどうになっている。
あの日。海岸から3キロ先の集落まで到達したという大津波は浜辺の松林もあっけなくなぎ倒して、一番に校舎に襲いかかった。最後の望みをかけて、最上階のさらにその上の屋根裏部屋に生徒たちを避難誘導した先生方は、しかしそのまま死も覚悟されたそうだ。
部屋は真っ暗。そして3月11日は、まだまだ極寒の東北。厳しい寒さがきっと、生徒たちの底知れぬ恐怖をあおったはずだ。それでも、先生の指示に従い、静かに、じっと耐えて一晩を過ごしたという子どもたち。
安増さんの心は、いっとき“中浜小”の子になっていた。「もしも自分がここの生徒だったら」と、頭を巡らさずにはいられなかった。
「1年生の子だったら、絶対に泣いちゃうと思う。死んじゃうと思ったら、私も泣いちゃうと思う。凄いと思った。みんなほんとうに強いと思った。だからノートに書きました」。
翌日には自衛隊のみなさんに、全員無事ヘリコプターで救助されたと森・教育長に聞いて、本当に心底、ほっとした。「私たちも、今日教えてもらったことを、生かさないといけない」とお友達と話し合い、神妙な顔でうなずき合った。
この日は午前中に、亘理町で語り部としてマイクを握って下さった梯(かけはし)京子さんも、自宅で津波にのまれながら、九死に一生を得た一人である。津波の一波も二波も、そして最後の三波目も、もろにかぶって家の中で、巨大な洗濯機にかけられたように、グルグルと何分も回り続けたという。
無事、生還しても「ショックで。そのあと1年間は、何にもする気にもなれなかった」と、引きこもった梯さんを、再び家の外に連れ出してくれたのが、大好きなゴルフだった。
梯さんは言った。「私はゴルフに救われました」。
その言葉が、選手会長の背中をさらに押す。
「僕らは、それでしか思いを表現することが出来ないけれど。それでも僕らはこれからも、ゴルフで何か役に立てることはないかを探し続ける」。
同大会は11年目にしてここ宮城県の仙台で開催にこぎつけたとき、池田勇太はそれと連動してもうひとつ、大きな行事を用意していた。
「この機会に子どもたちにも被災地を見てもらおう」と計画した社会学習見学会は、つい前日に一緒にスナッグゴルフで汗を流したお友達と、みんな一緒に山元町と亘理町を見て回る。「日本の歴史を変えたといってもいいほど大きな被害を受けた場所を、一度でも見てもらうことで子どもたちの心にもきっと強く刻まれるものがあると思ったので」。
もっとも当日の引率は、JGTOのスタッフに任せるつもりで自分は当初、19日の月曜日に控えた母親のゆみさんの誕生パーティの準備など、色々とスケジュールを組んでいたのだが、結局すべてキャンセル。
「なんで気が変わったかって? いや、何でもなにも・・・。ただ、やっぱり俺も一緒に行こうと思っただけだよ」と、素っ気なく応えたが、本音はもちろん「子どもたちのため」に他ならない。
まだ復興途上の町は、一見穏やかな田園風景にも見える。しかし、それは単に、無造作に生い茂る草木に覆われているだけで、その下の大地は未曾有の被害を受けて、思いがけず大きな窪みがあったり、深い地面の亀裂が隠されていたり。その中を子どもたちに歩かせるのだから、大人がちゃんと見ていてやらなければならない。「そこはダメだ。こっちから回れ!」と、ときおり大きな声で子どもたちを誘導しながら、注意深く被災の町を歩いた。
子どもたちを2つのグループに分けて、2つの町を入れ替わりで回る2行程で、先に亘理町から回るルートを選んだ池田は、震災の語り部のボランティアをつとめる飯沼晴男さんのガイドに耳を傾けながら、段々と表情を険しくしていった。まだ、ちっとも復興が進まない町の様子を眺め渡して、誰にともなく「ひでえ」と、小さく吐き捨てた。
母校の東北福祉大から数えて5年間を過ごした“第二の故郷”が心配で、震災直後も自分にも、何か出来ることはないかと何度となく、この辺りを見て回った。当時は見渡す限りの瓦礫の山で、あのころと比べたらそれは確かにちょっとは良くなっているのかもしれない。「でも本当は、ここにはず〜っと、たくさんの家があったんだ」。今はほとんど人影もなく、見渡すばかりの草原に、「子どもたちにはあの悲惨さも、表面だけ見ているだけではイメージしにくいかもしれないね」と、ぽつりと言った。
午後からは、震災で閉校に追い込まれた山元町立中浜小学校の旧校舎にも、子どもたちと一緒に訪れるつもりだったが思いがけず時間が押して、飛行機の時間が来てしまった。
本当に現状が伝わりきったかどうか。確認出来ないまま半信半疑で子どもたちとサヨナラをした池田のためにも、そのあとの子どもたちの様子をもう少し詳しく書かせていただく。
東京都の大田区立池雪(しせつ)小学校4年の安増比奈子さんは、旧校舎の屋上でガイド役の山元町教育委員会の森憲一・教育長がメガホン片手に解説してくださった中でも、もっともつよく印象に残った言葉を、自由研究用のノートに丁寧に書き留めた。
「ひなんした時 だれもないたり わめいたり しなかった」。
中浜小学校は、海のすぐそばに建っていた。遠くから眺めたら、特に何でもなく見える建物も、目の前にするとガラスというガラスが割れ、玄関の天井は抜け落ち、内壁は砕け落ち、鉄杭から何から剥き出しだ。
隣の体育館はあまりの惨状に、今は解体されてすっかり更地になっている。旧校舎の中も今は、廃屋のがらんどうになっている。
あの日。海岸から3キロ先の集落まで到達したという大津波は浜辺の松林もあっけなくなぎ倒して、一番に校舎に襲いかかった。最後の望みをかけて、最上階のさらにその上の屋根裏部屋に生徒たちを避難誘導した先生方は、しかしそのまま死も覚悟されたそうだ。
部屋は真っ暗。そして3月11日は、まだまだ極寒の東北。厳しい寒さがきっと、生徒たちの底知れぬ恐怖をあおったはずだ。それでも、先生の指示に従い、静かに、じっと耐えて一晩を過ごしたという子どもたち。
安増さんの心は、いっとき“中浜小”の子になっていた。「もしも自分がここの生徒だったら」と、頭を巡らさずにはいられなかった。
「1年生の子だったら、絶対に泣いちゃうと思う。死んじゃうと思ったら、私も泣いちゃうと思う。凄いと思った。みんなほんとうに強いと思った。だからノートに書きました」。
翌日には自衛隊のみなさんに、全員無事ヘリコプターで救助されたと森・教育長に聞いて、本当に心底、ほっとした。「私たちも、今日教えてもらったことを、生かさないといけない」とお友達と話し合い、神妙な顔でうなずき合った。
この日は午前中に、亘理町で語り部としてマイクを握って下さった梯(かけはし)京子さんも、自宅で津波にのまれながら、九死に一生を得た一人である。津波の一波も二波も、そして最後の三波目も、もろにかぶって家の中で、巨大な洗濯機にかけられたように、グルグルと何分も回り続けたという。
無事、生還しても「ショックで。そのあと1年間は、何にもする気にもなれなかった」と、引きこもった梯さんを、再び家の外に連れ出してくれたのが、大好きなゴルフだった。
梯さんは言った。「私はゴルフに救われました」。
その言葉が、選手会長の背中をさらに押す。
「僕らは、それでしか思いを表現することが出来ないけれど。それでも僕らはこれからも、ゴルフで何か役に立てることはないかを探し続ける」。