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日本オープンゴルフ選手権競技 1999

尾崎直道が、日本オープンゴルフ選手権を初制覇

尾崎直道が、日本オープンゴルフ選手権を初制覇。5月の日本プロゴルフ選手権に続く、年間メジャー2勝目をあげるとともに、ツアー史上5人目のグランドスラムを達成した。
「信じられないよ。前半が終わったときは、もうあきらめていたんだ。ノブちゃん(湯原信光)が2つのボギーを叩いたとき(12,13番)、チャンスがまた巡ってきたのかなという気持ちになった。

 前半は自分の地獄を見て、後半は、ノブちゃんの地獄を見た。

 今回、勝てなかったら、自分のゴルフ人生に、大きな悔いが残ると思って、踏ん張りました」(尾崎直道)

 ※グランドスラム=日本の公式戦(メジャー)である日本プロ、マッチプレー、日本シリーズ、そして今大会の日本オープンの全4大会を制することを指す。

1番ホールで、ピンまで1メートル足らずのパーパットを残したとき、直道の心には前日3日目の最終ホールでの光景がよみがえっていた。そのときも、1メートルのスライスラインのパーパット。これをはずしてボギーで3日目を終えていたのだ。

「昨日のイメージが残っていた。チラッとあのときのことを思い出してしまった」。最終日も、同じような距離をはずして、ボギースタート。

 そのころから吹き始めた、最大瞬間風速19メートルを超える猛烈な風は、直道の心のざわめきと同じだった。

 「1番は参った。あと17ホールもあるのに、どうしようと思った。

 平気だと思っていたのに、強烈にプレッシャーを感じている。

 いざアドレスをすると、手がブルブル振るえていたんだ。浮ついた感じで、手にタッチが伝わらない。ドキドキしちゃって、プレッシャーで手が震るえてるんだ。」 1打差2位でスタートした湯原信光は、そんな直道には非常に手ごわい相手に見えた。

「ものすごく落ちついて、すいすいパットを入れていくんだ。あれにはビックリしたね。ノブ(湯原信光)ちゃんにはプレッシャーがないんだ、と思った。崩れるように見えなかったんだね」(直道)。

 前半ハーフで、直道はノーバディの6ボギーを叩いて通算10オーバー。11番ミドルでもボギーを叩き、通算7オーバーまでスコアを伸ばしていた湯原と、4打差ができていた。

 「でも、ないと思っていたノブちゃんのプレッシャーは、やっぱりあったんだ。ショットもダブったりして、プレッシャーを感じているのが、わかった」(直道)

 湯原は12,13番で連続ボギーを叩くと、15番ではショットが乱れ、ラフを渡り歩いた。ようやく、第4打目でピン右1メートルにつけたが、これをはずしてダブルボギー。

 直道が息を吹き返した。

「初日の4アンダーはなんだったんだって感じだったけど、あれは優勝争いができるという貯金だったんだね。崩れても、あれがあったから堪えられたし、リードされたときに、張り合いが持てた気がする。前向きになれたね」(直道)

 直道、11オーバー、湯原、細川が12オーバーで迎えた17番、225ヤードのパー3。

 直道は、3番アイアンでピン手前6メートルに乗せた。

 

「このパットを入れたら、8,9割がた勝てると思った。ウィニングパットになると思ったパットが入って、我を忘れたね」

 ワンカップ分くらいの、スライスライン。勝負のバーディパットを沈め、通算12アンダー、2位に2打差で、つきはなした。

 18番、最後のパットはバンカーから寄せて2メートル。これをしっかり沈めて、直道は激闘の1日を締めくくった。

尾崎直道のはなし
「信じられないよ。前半が終わったときは、もうあきらめていたんだ。ノブちゃん(湯原信光)が2つのボギーを叩いたとき(12,13番)、チャンスがまた巡ってきたのかなという気持ちになった。

 前半は自分の地獄を見て、後半は、ノブちゃんの地獄を見た。

 今回、勝てなかったら、自分のゴルフ人生に、大きな悔いが残ると思って、踏ん張りました。

 昨日プレー後に、腰のあたりに激痛を憶えて、医者に行ったら尿管結石だったんです。でも、治療中にどうも石が流れて落ちてくれたみたいで、痛みが治まりました。運がよかったと思います。

先月、恩師である千葉日大一高のゴルフ部監督の高野伸先生(享年52歳)が亡くなりました。ぼくのことを非常にかわいがってくれた先生で、その追悼のためにも、ぜひ勝ちたかった」

★直道は、ウィニングボールを観戦にいらしていた高野氏の遺族の方にプレゼントしたそうだ。 

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