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<シリーズ>初シード選手に密着①井手口正一「めざせチャレンジの星!」

昨年6月のJCBクラシック仙台で8位タイ。7月のセガサミーカップで10位タイ。9月のサントリーオープンで自己最高の4位タイ。

たびたび上位に顔を見せて報道陣に囲まれるたびに、井手口が必ず口にする言葉があった。

「“チャレンジ”のおかげで、僕はここまで来ることができました」。

二部ツアーのチャレンジトーナメントは、いわばレギュラーツアーの登竜門。
出場権を持たない選手たちが、這い上がるチャンスを許された場所。

井手口がここで年間2勝を挙げたのは、一昨年前だった。賞金ランクは1位につけて、翌2006年の出場権を勝ち取ったのであるが、当然のことながら、賞金総額はレギュラーほどには高くない。
暮らし向きは楽ではなかったが、だからこそ養われたのは「強烈なハングリー精神だった」と井手口は言う。

シーズン中は、ほとんど熊本の実家に帰ることはなかった。
往復するだけでも、大変な費用がかかるからだ。

愛車のワゴン車が移動の「足」兼「ホテル」だった。
経費を少しでも浮かせるために、風呂は会場近くの健康ランドを利用した。
布団一式を荷台に詰め込んで、“道の駅”などに車を泊めて夜を明かした。

真っ暗闇の中で、ふいに「コンコン・・・」と窓ガラスを叩かれたのは、ある日の深夜のことだ。
驚いて飛び起きたら、警察官が車内を覗き込んでいた。

不審者ではないかと思われたようだ。
職務質問を受けたが事情を説明したら、疑いもすっかり晴れた。
「頑張れよ!!」と、むしろ励まされて安堵したものの、そんなヒヤリとした経験もした。

徹底した節約生活は、仲間うちでも有名だった。
その週の宿泊先を聞かれて「いつものとこ」と短く答えるだけで、みなすぐに察してくれるほどだった。

ツアーに本格参戦を果たした昨年は、以前より暮らしぶりは楽にはなったものの、「最低でも6000円はかかるホテル代が、もったいないと思っちゃうから」。
周囲には見栄を張って「ホテルに泊まった」と言いながら、実は「いつものとこだった」という週もあったという。

涙ぐましい苦労の数々も夢実現のためだから、悲観などしていなかったが「できれば毎週、地元・熊本から堂々と通えるような選手になりたい」。
転戦中に密かに抱いた目標が、井手口を初シード入りへと押し上げたことは言うまでもない。

それだけに、本人にも「僕はチャレンジ代表」という気持ちが強い。
「チャレンジがあったからこそ、今の僕がある」と、折に触れて井手口は言う。

自分たちの未来の可能性に賭けて、その舞台を用意してくださった主催者には自然と感謝の思いが沸いてくるのだという。
「この先、チャレンジの試合がひとつでも減らないように・・・。僕が頑張る」。
レギュラーツアーでの活躍は、自分を育ててくれた方々への恩返しでもある。

関西の名門・近畿大学を3年で中退して目指したプロの道。
27歳の99年にデビューを果たしたものの、そこからさらに7年の月日がかかった。

昨年11月。事実上の最終戦カシオワールドオープンで初シード入りを確定させたとき「これで良い報告ができる」と、胸を撫で下ろした。
その2週前に、シニア認定プロでもある父・一幸さんが腰の手術をしたばかりだった。
病院のベットの上から「絶対に予選落ちだけはするな」と、言われていた。

稼げない時代は、キャディをして支えてくれた父。
「今日もパソコンにしがみついて、僕の成績をチェックしてくれていると思う」。
一瞬、遠い目をしたその先に、一幸さんの笑顔が見えてくるようだった。

地道な努力の末にようやくつかんだシード権。1年目の今年はもういちど体を鍛え直し、技を磨いて「優勝も狙っていきたい」と、力をこめた。
“チャレンジの星”が開幕を前に、さらなる飛躍を誓った。

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