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倉本昌弘が子供たちに語ったその壮絶なゴルフ人生は…

倉本がこのほど“ゴルフ伝道”に訪れた広島市立本川小学校の子供たちは、授業の途中でこの人はいったい何を言い出すのかといった神妙な顔つきで、話の続きを聞いていた。

倉本は、淡々と語り続けた。

「心臓弁膜症」という診断を受けたのは、その年2000年の5月だった。命の危険もあった重い病いの発見は、ひょんなことだった。岡山県で行われていたトーナメントで体調を崩し、病院で検査を受けた。一度は風邪と診断され、点滴を受けていた際に、医者が何気なく聞いたのだ。

「倉本さん、最近、血液検査をしましたか?」。
「そういえば最近、していません。お願いします」。

そこから肺炎にかかっていることが発覚。
精密検査を受けると、心臓がうまく機能していないことが原因と分かり、すぐに東京の病院に搬送された。
「手術をしないといつ命を落とされるか分かりません」と言われて絶句した。
「残念ながらゴルフを続けていくのは困難です」と宣告されて、二度言葉を失った。

しかし、そのあと倉本は、不屈の闘志で奇跡的な復活を遂げるのだ。
術後約1年でツアーに復帰すると、3年後には復活優勝。

それまでだって、幾度も試練はあった。
大学卒業後、いったんは父の料理店に入り、板前の修業とゴルフの両立に自分なりに心血を注いでいながら「親のスネかじり」と、陰口をたたかれた社会人の2年間。
初めて受けたプロテストに落ちて、挫折を味わった80年。
29勝も挙げながら、実は一度も賞金王を獲っていないこと……。
「そんなプロは、永久シードの中でも僕ひとり」と、子供たちの前で苦笑した。

しかし、そのたびに乗り越えて来られたのは「僕にはいつも夢があったから」と、倉本は結んだ。

「諦めてしまえば楽だったろうけど、どうしてもプロとしてやっていきたいという思いで頑張ったんだ。
努力したり、頑張ることは苦しいし、辛いことばっかりだ。
だけど、日常の中に組み込んでしまえばそうは感じない。
そう、それは毎朝起きて、歯磨きをするように……。
53歳になった今でも僕は、毎日トレーニングをして、体を鍛えているんだよ」。

いま、シニアツアーでともに戦っている選手たちは、ジュニア時代からしのぎを削ってきた仲間でもある。「13歳のときに知り合った選手と今も、一緒にゴルフで戦えるなんて素晴らしくない?」。
それこそが、どんなときも諦めず、続けてきたゴルフが授けてくれた人生の宝物だ。

そして、あのとき救われた命も。
「神様は僕に2つの命をくれました。いま、生きている命とプロゴルファーとしての命です」と、倉本は静かに言った。

「この恩返しに僕は、いっそう誠実に生きることと、みんなで分かち合うことを心がけていきたい。
ゴルフは審判員のいない自己申告のスポーツだから。
自分はこういうことをしたんです、と自ら発表し、自分に嘘をつかない誠実なゲームだから。
その素晴らしさをこれからも伝えていきたい。
今日をきっかけに、みんながゴルフに興味を持ってもらえれば嬉しい」と、授業を締めくくった。

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