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日本ゴルフツアー選手権イーヤマカップ 2002

★ 吉澤克美

 吉澤が、初めてクラブを握ったのは19歳、読売巨人軍時代のシーズンオフ、1年目のことだった。
 先輩の定岡正二さんらに誘われて、嫌々ながらもついていったショートコース。当時は、ピッチングウェッジで150ヤード、7番アイアンにいたっては200ヤード以上も遠くに飛ばせるくせに、ドライバーなど、長いクラブでは、ちっとも思うように当たらない…。
 「思い返せば、あの思い出こそが、僕の“第二の人生”を作る大きなきっかけになったのかも」と、吉澤は笑う。

 漫画『巨人の星』に恋焦がれ、野球道を邁進した少年は、國學院久我山高校(現・國學院大學久我山高等学校)に進み、エースとして大活躍。
 それが、スカウト陣の目にとまった。
 ドラフト4位で、投手としてジャイアンツに入団。デビュー当時の教育リーグで、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)を3回パーフェクトに押さえ、周囲の期待を一身に受けたものだ。
 その期待度は、連日、ダンボールに抱えきれないほど届いたというファンレターの数が、物語っている。
 吉澤には、順風満帆の野球人生が、約束されているかに思われた。
 だが、当時の巨人軍は、王&長嶋を筆頭に、強烈な個性と才能を持つ選手たちが席捲。
 たびたび故障に悩まされた吉澤には、とうとう、チャンスは巡らず、4年目の秋、王貞治選手が惜しまれつつ現役引退を表明した影で、吉澤も、その野球人生に、ひっそりと、幕を下ろしたのだった。

 紆余曲折を経て、吉澤は、いま、JGTOの競技委員として、第二の人生を歩む。
 プレーヤーたちの技量を引き出すコース作りに邁進し、悪天候のトーナメントでは雨、雪の影響を案じ、滞りなく大会が終了するよう力を注ぐ。ルーリング要請には、的確な裁定に心を砕き…。それらはすべて、巨人軍時代の華やかな選手生活とは一線を画す。
 いわば“縁の下の力持ち”役に徹する、現在の生活。だが、「競技委員は、日本ゴルフ界改革の一端を担う重要な仕事。また、業務を通し、選手たちと目に見えない信頼感が生まれつつあることなどにも、大きな充実感を感じています」と、吉澤。
 「今はただひたすら、目の前の業務を着実にこなして頑張りたい」と話す一方で、一昨年前、アルゼンチンでのワールドカップで競技委員として赴いた経験と感動を生かして、世界を視野に入れた活動にも、目を向け初めている。