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宮里聖志が被災地へ(3月12日)

この日の寄贈式を待たずして、すでにコーチングセットを大活用の女川第二小のみんな。寄贈式のこの日ばかりはリボン飾りも、すでに傷のいっぱいついたランチャーがその証し

今年7人目の伝道師は考えた。「子供たちに楽しんでもらうには、どうしたらいいか」。向かった先は、宮城県の女川(おながわ)町。愛する故郷の沖縄で培った「なんくるないさ」の精神も、今回ばかりは通用しない。「来るまでは、正直気が重かった」。子供たちとどう接すれば一番いいのか。思い巡らすほどに分からなくなった。

悩んだあげくに「まず、自分が本気で取り組もう。それしかない」と心に決めて、いざ子供たちの前に立った。すると、たちまちそんな逡巡も一瞬で消えていた。

「みんなすごく元気いっぱいだったから」。遠くまでボールが飛んだと、はしゃぎまわる子。空振りをしてしまったと、クラスメイトと腹を抱えて大笑いする子。
「みんな、すごくやんちゃで」。宮里も、いつのまにか一緒になって笑い転げた。

2011年3月11日は、その日12日の前日からちょうど1年前のこと。
高台にある女川第二小学校は、校舎への直接的な被害こそ逃れたが、校庭のフェンスはギリギリまで巨大な津波が押し寄せ、児童全員が保護者に無事引き取られるまで丸3日もかかった。
一番長い生徒なら、昨年11月まで避難所生活が続いた。体育館には支援物資が山と積まれて、10月いっぱいまで使えなかった。

幸い、生徒はみな無事だったが、8割以上が住み慣れた家を失い、数十人が大切な大切な家族を亡くした。校庭から見下ろすリアス式の海岸は、いまも美しいままだが漁業でにぎわった港はあの日、町ごと波にのまれた。いまでは横倒しのままのビル数軒を残してすべて更地になってしまった。

失われたもののあまりの大きさを目の当たりにして、宮里も言葉を失った。それだけに、子供たちの元気な歓声が、いっそう心に沁みた。午前中の授業は、スナッグゴルフの実技講習会でも自然と子供たちの肩や頭に手が伸びた。せめてこのひとときだけでも一緒になって、楽しみを分かち合いたかった。

「でも、みんなとても逞しくて。まさに僕が元気をもらった感じです」。子供たちの明るい様子に安堵の息を吐きながら、宮里は言った。それでも6年2組の齋藤瑛児くんが、「今日はストレス解消になって良かったです」と、講習会の最後にこの日の感想を述べたときに、はっと気づいた。

子供たちがあまりに元気だったから、うっかり忘れてしまうところだった。児童のほとんどが、今も仮設住宅で暮らしていること。「近所の人に気をつかって、けっこうストレスがたまるんです」と、まるで大人の口調で齋藤くんは言った。

毎日、みんなでバスで通う学校も、校舎を女川第一と第四小学校と共用している。運動場も第二小のみんなだけで自由に使えるわけではない。互いに譲り合い、わがままを言いたいさかりも大人たちを気遣って、気持ちを抑え込んでいる子も多いという。

ちょうど震災から1年がたった前日11日には、町内でも一周忌の追悼式が行われたばかりだ。「1年がたったといっても問題は山積みで、みなさんの苦労も悲しみも、いっそう増すばかりなのではないか・・・」と、宮里が想像するにつけても改めて、祈るような気持ちになった。

梶谷美智子・校長先生に「1年がたって、今まで抑えていたものが吹き出して、改めて気持ちが不安定になっている子もいる」と聞けばなおさら、子供たちの健やかな成長を心から願わずにはいられなかった。

それでも齋藤くんをはじめ、一緒に講習会に参加した4年生のみんなも、「今日は楽しかった」と、言ってくれた。石川遼をはじめ、プロ10人でやはりここ女川町を訪れたのは昨年7月。そのとき、みんなでスナッグゴルフに興じたのをきっかけに、JGTOにコーチングセットの寄贈を申し出られた。ここ女川第二小学校は、すでにクラブ活動の一環として道具を活用されており、早くもドロや傷がたくさんついたランチャー(ゴルフのアイアンにあたる)を見るにつけて宮里も、「スナッグゴルフが少しでも気晴らしになるのであれば」と、子供たちの歓声に嬉しくなる。

来週21日には、いよいよ卒業式を控えているという。「その直前にプロにお越しいただいて、子供たちにはとても良い思い出が出来ました」と、梶谷校長先生に言われたことがまた嬉しくて、「今日はお邪魔させてもらって良かった」と、宮里は心から思うのだった。

  • みんなで一緒に楽しみを分かち合いたいと、積極的に子供たちと触れあう
  • ラウンド対戦で名乗りを上げた小海途樹くん(右)は、みごとプロを1打差で下して優勝を飾った
  • 「子供たちに楽しんでもらうには、自分が本気で取り組むしかない」と考えた宮里もハッスルプレーで盛り上げた

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