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ダンロップフェニックストーナメント 2013
中嶋常幸が復帰戦!
術後ようやく18ホールを回り切れたのは、ほんの2週ほど前のことだ。当初は、シニアのツアーでにらんでいた復帰も見合わせ、やはり今年は無理でしょうと、飯田光輝トレーナーも言っていたのにこの人は。
「もうダメだと思ったら、タオルを投げ込んでくれとあいつには言ってある」と、笑う。
「なんせ久しぶりだから。このコースで78は打つだろう」と、本人すら期待などしていなかったのに、このスコア。
「意外にゲームを覚えていたね」とうそぶくが、これほどの選手がたった数ヶ月で試合勘を忘れるものか。1974年からスタートした今大会は毎年のように、国内外のビッグネームを招いて、当時こんなジンクスが出来上がりつつあった。「日本人選手は勝てない」。
それを打ち破ったのが中嶋だ。
初の日本人チャンピオンに輝いた1985年は、今は亡きセベとの死闘を制したから、なおさら本人には思い出深い。「そのあとアメリカに行ったらね、みんながおめでとうって。ここでの勝利は当時は海外にもニュースが届く。日本のゴルフ界をリードしてきたトーナメントは僕の中でもNO.1。もっとも勝ちたい大会のひとつになった」。
思い入れのある舞台を復帰戦に選んだのは、スリクソン契約プロとして40回大会に華を添えたい気持ちもひとつ。またセッティングといい、顔ぶれといい、どれを取っても高水準のフィールドで、今の自分を試したい気持ちもひとつ。
「ケガをして、何が落ちたのか。自分の中で、何が鈍ったか。それが分かればこのオフに、やるべきことが見えてくる。だから今年のうちに、1試合でも体験をしたかった」。データ集めのために、踏み切った強行出場は、初日からさっそく「収穫の多い1日。俺は、まだやれる」と、メスを入れて間もない体にたちまち希望がみなぎった。
クラブが握れない間も「あたためてきた」。2016年から、腹や胸に固定をしてパターを打つ「アンカーリング」の禁止は、2005年から長尺パターを握る中嶋にとっても頭が痛いが、戦線離脱の間に短尺の打ち方を、脳裏に描き続けて「実際に、試合で試せたことが大きかった」と、11番では左から10メートルをねじ込む場面も。
課題の飛距離も「もう一度、鍛えなおせば300ヤードは行ける」と喜々として、「早く戻ってきたかった。ずっと、ウズウズしていた。やっぱり試合は楽しい。ワクワクするよね!」。療養中は、孫の相手に目尻を下げていた好々爺も、いざ現場に戻ればたちまち勝負師に。「スーパー爺ちゃん、頑張るよ!」。このまま、ジャンボが持つ55歳241日のツアー最年長Vを、塗り替えるようなことにでもなれば・・・。