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倉本昌弘の母校について
1967年の卒業から倉本は一度、母校を訪ねているそうですが、それも平成14年に新校舎に建て替えられるうんと以前のことで、「全然変わってしまって、昔の面影はまったくない」と、言います。
明治6年に創立。長い長い歴史の中で、同校もまた昭和20年のあの悲劇を免れることは出来ませんでした。
爆心地からわずか460メートルのところにあった同校は8月6日のあの日、鉄筋コンクリート造りだった西校舎の外郭だけを残して木造校舎のすべてを失い、また疎開していなかった生徒のほとんどが、一瞬にして命を失ったといいます。
その後、残された校舎をもとに、修復や増・改築が繰り返されてきましたが、やはり原爆の爪痕は深く、年々老朽化が進み、低学年時は西校舎で授業を受けたという倉本も「特に、物置になっていた地下の教室は子供ながらにとても怖くて、おばけが出るなどの噂もあった」と、振り返ります。
ついに建て替えが決まったとき、取り壊しが始まった西校舎の壁面から、被爆者の消息などを知らせたとみられる伝言が多数、残されていることが分かりました。
資料によると、西校舎が被爆直後から被災者の救護所として利用された時期があったためで、この一部を被爆建物として保存し、新たに「平和資料館」として展示し、後世に語り継いでいくことが決まったのだそうです。
2006年11月にはこの資料館の入館者数が10万人を超え、生徒たちが授業を受けるかたわらで、今も平和を祈る人々の列が絶えません。
12日(火)のこの日、倉本によるスナッグゴルフの実技講習会は、そんな場所で行われました。
抜けるような青空のもと、ゲームに興じる子供たちのひときわ明るい歓声は、すぐそばの資料館にも響き渡っていました。