記事
日本プロゴルフ選手権大会 日清カップヌードル杯 2015
第83代目のプロ日本一は大会史上初のレフティ、アダム・ブランド!!
ツアー通算30勝の永久シード選手でもある倉本会長は「プレッシャーがかかったときに、彼がどういうミスをするか。僕が一番分かっている」。いくつかのホールでそれを想定した場所に、ピンを切るつもりと言っていた。左打ちのドローヒッターが嫌がる場所。ゲームを盛り上げ、プロの中のプロを決めるためにも、「このまま簡単には勝たせたくない」との主催者の思惑。
まんまとその罠にはまった場面もあった。「彼には打ちにくいホール」と倉本会長も言った4番でボギーが先行。
「最初は少し、ナーバスになっていた」。スタートの1番ではいきなり左の林へ。64の大量リードを奪った前日から一転、序盤はことごとく、きわどいパーを拾う苦しい場面が続き、「以前の僕なら、ここから一気に崩れていたかもしれない」。
メンタル強化の専門家にかかったのは2013年。「試合に行くのも嫌になった時期があり、もっと精神的にも強くならなければ、と思ったんです」。
次の5番でピンそばのOKバーディで、すぐに取り返した。前の組が詰まって、20分ほどの待ち時間が出た7番ではリズムを崩し、揃ってボギーを打った同じ最終組の岩田と、川村を横目に「僕は全然、気にならなかった」と、ケロリとバーディを奪ってみせた。
一時は小平が、3差まで迫った。「しかしその小平も8番、9番で連続ボギーを打つなど、追いかける人間が、入れ替わり立ち替わりになってしまった」(倉本会長)。結局、誰もブランドを脅かすことすら出来ないまま、4打差で迎えた18番は、もはや「ダブルボギーを打っても勝てる」と楽勝だった。「彼のスイングは、緊張するとフックして、右に行く」(倉本会長)と主催者に、弱みを見抜かれ本人も、この日は1オーバーと伸び悩んでもなお、最後は楽々と逃げ切った。
ショットのミスは、グリーンで拾った。今年は開幕戦でいきなりパットの不振に慌てていったん帰国。豪州でコーチと毎日みっちり7時間。「肩の上下動を押さえて特に右肩を、低い位置で保つように気をつけた」と、故郷で練習に練習を重ねてきた成果を、大舞台で存分に披露した。
83回という長い歴史の中でもオセアニア勢として、初のプロ日本一に、本人以上に感極まったのが、ここ太平洋クラブ江南コースでハウスキャディ歴8年の杉川依子さん。「初めてプロのバッグを運んで優勝出来るなんて。感激です」と感泣した。「一番緊張したのは、水曜日の練習ラウンドでした」と、泣き笑いした。今週は、たまたまブランドの専属キャディが里帰りをしており、割り当てられたのが杉川さんだった。ほかの豪州プロはみな、自分のキャディを連れており「日本人は、私ひとりぼっちで」。言葉も通じない中でも、身振り手振りとアイコンタクトを駆使して深めていった絆。本戦に入ればもはや、何不自由なく和気藹々のラウンドに、「実は、僕はハウスキャディさんと回ったほうが、上手くいく」と、杉川さんの献身にも報いた。
鉛筆も、スプーンやフォークも、野球のピッチングも普段の生活はすべて右利き。でも13歳で始めたゴルフだけは、なぜか左のほうが上手に打てた。「始めたころは、あまり左の道具がなくて。苦労しましたけどプロになれば、メーカーからいただけるので」と、不便も特に感じたことはない。
左打ちのチャンピオンも、大会史上初。また、ツアー史上でいうなら91年ダイドードリンコオープンの羽川豊に次ぐ23年ぶりの記録達成に「まさか僕がメジャーで初優勝だなんて。これで左利きの人たちに、少しは勇気を与えられそう」と、本人も言ったとおりに、ブランドの快挙を喜んでくれる人たちがいる。
ブランドによると、カナダツアーなどでは右と左のプロゴルファーがほぼ半々で、海外ツアーではレフティにも意外と市民権があるそうだが「日本では、まだ競技者人口の3%ほど」と、話すのは、レフティ協会全日本事務局長の山田直也さん。「左打ちの練習環境はまだまだ限られている」と、肩身が狭い。「そんな中で、ブランド選手がメジャーで勝たれたのは、私たち左利きの人間にとって、非常に名誉なことです」。来年4月には、宮崎でレフティによる世界大会が予定されており、「ブランド選手のおかげで、我々にも光が当たるのではないか」と、山田さんも期待を寄せる。
ミケルソンやバッバに続けと米ツアーへの進出を夢見て、2009年から3シーズンを二部ツアーのネーションワイドツアー(現ウェブドットコム)で戦ってきたが昨年、奥さまが2人目を妊娠。「もうアメリカには行かないで」と、妻からのダメ出しに、素直に従う優しい夫だ。家族のために、比較的行き来の楽な日本を新たな稼ぎ場に選んで正解だった。
参戦初年度の昨年、さっそく初シード入りを果たすと2年目の日本ツアーでつかんだビッグタイトル。「こんなに大きな大会での優勝は、僕自身も10年ぶりですので。本当に嬉しいですね」。
終わってすぐに、4歳になる長女に宛てて、メールを送っておいたそうだが、優勝インタビューの最中にも、まだ返事は来ていなかった。「見ていないのかもしれない」。ホームページのスコア速報も、テレビ中継が終わるまでは途中から、止まったままになっているから「まだ、ハラハラしているかもしれないね」。朗報を聞いた際の家族の安堵と歓喜を思って、改めて喜びにひたりつつ「いつかは、またアメリカに挑戦したい」。このまましばらく日本ツアーでもっと自信と実力をつけたそのときには、家族の反対にもあらがえるかどうか。