笑いあり、涙ありの20年だった。そして、20回目を迎えた今年はいっそう笑いと涙に包まれた1日となった。
4月15日に、中嶋はある決意を持ってやってきた。
この日の冒頭に、みなさんと20年の歩みを振り返るスライドショーを鑑賞した。
「・・・若かったねえ」と、苦笑した。
大合唱を浴びて、つい泣けた。
「中嶋さん、20年間ありがとう!!」。
「俺のほうこそ、感謝の気持ちで一杯」。
1年に一度、大会の開催に合わせてここを訪れるのが生きがいだった。
たくさんの笑顔と勇気をもらった20年。
「ここは俺の家みたいなものだから・・・」。
1998年の中日クラウンズの1番パー4でティショットを直接入れる“ホールインワン”を達成した。その際に、獲得した賞金を寄付したことからスタートさせた。
開催地の愛知県東郷町にある小規模授産施設「たんぽぽ作業所」への慰問は、いつしか中嶋には欠かせない1年の恒例事業となった。
中嶋を慕う若手選手や昨年度の覇者や、その年旬のシード選手らにも手伝ってもらいながら、施設の方々と1日、パター合戦やクイズ大会、プレゼント交換会などで絆を深めてきた。
ある年には中嶋が、バスをチャーターして施設のみなさんを、トーナメント観戦にご招待したこともある。
そんな中で、地元寿司職人の山内和義さんの申し出は、こちらもまた涙が出るほど嬉しかったものだ。
山内さんとの出会いは中嶋が25歳の時だ。プロアマ戦でたまたま一緒に回って意気投合してから39年。それぞれの人生の岐路には互いに励まし合いながら、共に歩いてきた無二の親友が、「中嶋プロが行くなら、僕はみなさんにお寿司を握ってご馳走するよ」。
最初は山内さんの指導で見よう見まねも、今ではシャリを握る中嶋の手つきもすっかり職人?!
「友情っていい。親友って大事」と、20年目の節目に改めて、山内さんにも感謝の気持ちで一杯だ。
「20年前に、初めて僕が中嶋プロと一緒に、ここにお邪魔したのは51歳のとき。こう見えて、もう71歳になってしまいました」と、山内さんがおどけて笑った。
中嶋は、63歳になった。
いつまでも、永遠にこの“我が家”に通い続けたいのはやまやまだが近頃は、ケガや体の影響もあり、ポツポツと留守にする年も出てきてしまった。
最近ではここに来るたびに、「この慰問事業をどのような形で引き継いでいくか」がもっぱらの懸案事項だった。
「若い選手が引き継いでくれたら」とのひそかな願いをこめつつ中嶋は、ひとまずいったんここで、この恒例行事にひと区切りをつけることに決めた。
長年にわたる、2人の功績をたたえて大会主催のCBCテレビから、感謝状と記念品が贈られ、また涙ぐむ。
施設の方々からも、感謝状を受け取り中嶋の涙が止まらない。
泣きながら約束した。
「終わりじゃないよ。またいつでも僕は、ここに帰ってくる」。
「せ〜〜〜の!」の合図で、施設の方々が、心を込めて作ってくれたくす玉を、山内さんと仲良く一緒に割ろうとしたのに、あれれ、なんで割れない?!
泣きながら、腹を抱えて笑った。
名残を惜しむように、お顔と名前を忘れないように、お一人お一人との記念撮影に収まった。
「また会おうね!」と、最後は笑顔で約束した。