寒風の校庭で、自分たちが使い終えた道具を黙々と片付けて歩く一人の男が、よもやツアーで30勝のレジェンドとは子どもたちの誰も思うまい。
あちこちで上がる子どもたちの歓声もただニコニコと聞くだけで、徹底して裏方に徹するこの男。
「雑用係です。僕はいつも下働きです」と、記念すべき日にもそのスタンスを変えることはなかった。
倉本昌弘が、2009年にぶち上げた壮大な夢。
故郷の広島市内の全小学校に、スナッグゴルフを寄贈すること。その原資を集めるために、飲料の自動販売機の売り上げの一部を寄金に充てるという仕組みを、メーカーの協力と仕組みの後押しを受けて、実際の活動としてアクションを起こすことだった。
「この活動いいなと賛同してくださった方々が、この自販機から飲み物を買ってくださり、ちょっとずつ、ちょっとずつ、貯まっていったお金で1校ずつ増やして、今日が記念の70校目になりました!!」と子どもたちの前で晴れやかな声をあげたのは、倉本の“片腕”であり、県ジュニアゴルフ振興協会の木村暢宏・事務局長だ。
市内にはいま、140余の小学校があるそうだから、9年の月日をかけて、ちょうど道半ば。この日2月13日に寄贈式が行われたで市立口田小学校、ようやくひとつ節目を迎えた。
2014年に、公益社団法人日本プロゴルフ協会(PGA)の会長に就任したが、倉本が活動を始めた当初から、今も協力を惜しまぬ女子プロの枝広美子さんらと共に、この日の寄贈式で子どもたちの手に託した賞状にも、はっきりと記してあるが、「この活動はJGTO(一般社団法人日本ゴルフツアー機構)のツアーメンバーである、倉本昌弘としてのもの」。
組織の枠組みや肩書きを越えた、いちプロゴルファーとしての見果てぬ夢は年々じわじわと広がりを見せて、この日記念の講習会にも総勢15人ものボランティア講師が集まるなど、今や倉本一人のものではない。
この日は4年生の115人を前に「これだけの人数を指導していくのにはとても手が足りない。快く、手伝ってくれるみんながいなければ、ここまで続けてこられなかった」。
今や“チーム”と呼ぶボランティアスタッフへの倉本の信頼は厚く、レッスンの日はいつも、当然のことながら倉本からの直接指導を望む子どもたちの中から、不公平感を口にする子が出はじめたこともあり、それを契機に指導はあえて、スタッフにすべてを任せることにしている。
特に倉本夫人のマーガレット京子さんは、寄贈の1校目からほぼすべての講習会に参加。1月のスキーでケガをしたという膝痛もいとわず手慣れた様子で子どもたちにスナッグゴルフを指導するさまは、それをどれどれ・・・と、はたからのぞき込む夫のほうが、まるでアシスタントさながらである。
おしどり夫婦が声を揃えた。「市内全校制覇、したいよね!!」。それもあと6年ほどで、達成できる見込みもついた。「市内が落ち着いたら、次は県内全制覇、県外制覇・・・と続けていけたら」と、夫妻の野望はとどまるところを知らない。
そして2020年にはそう、東京五輪だ!!
「オリンピックでゴルフ競技が復活したんです。この前のリオも、次の東京でもゴルフをやります。君たちが上手になるのは、パリか・・・ロサンゼルスあたりかなあ」と倉本は、この日の子どもたちの顔という顔を見渡し、「頑張って、選手になってくれませんか?」と呼びかけた。
このときばかりは東京五輪の強化委員長という肩書きを前面に押し出して「君たちの中から“お、強い選手がいるぞ”と言って、強化選手になってもらおうかな?!」。
そのために、スナッグゴルフから本ゴルフへのスムーズな移行は危急の課題であり「PGAとJGTO、LPGAとのさらなる連携強化」など、具体的な推進策にも余念がない。
レッスン会のあいだはすっかり黒子になりきるマッシーも、担任の先生と合わせて5人とのガチンコ対決では、早々に勝負を決するなどここぞとばかりに、永久シード選手の輝きを解き放ち、存在感を示すことも忘れなかった。
今は全国に15あるという各地区のPGA代議員、同・理事選挙を控えた多忙な時期。つかの間のオフも惜しんで慌ただしく駆けつけた校庭に、かつて「59」の世界記録を打ち立てた伝説の男は夢のつづきを描き続けていた。