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「父が見てると思ってやる」平塚哲二・ダイナスティランク8位
いよいよ、容態が急変したのは2005年の開幕戦・東建ホームメイトカップの木曜日のことだった。
しかし試合中の平塚を気遣った家族はすぐに知らせず、病床にかけつけたのは、その週の日曜日。
それから約2週間、平塚も家族と交代でつきっきりの看病を続けたのだった。
そして13日(水)の早朝4時、央さんは静かに息を引き取った。
寝顔を見届けたあと、すぐにその足で平塚は、香港行きの飛行機に飛び乗った。
父の通夜は14日(木)。葬儀・告別式は15日(金)だ。
ちょうど、VISAダイナスティカップの開幕と重なるが、迷いはなかった。
プロゴルファーになったときから、覚悟はできていたからだ。
「それに、それが父の願いでもあったから」。
10歳のとき、父の手ほどきでゴルフを始めた。少しでもさぼると、愛の鉄拳が飛んできた。
世界を飛び回るプロゴルファーになってほしい、というのが父の夢だった。
自分の葬儀に出るという理由で、息子が日本代表という責任を放棄することこそ、父は許さなかっただろう。
「明日から、父が見ていると思って頑張りますよ」。
そういって平塚は、静かに笑った。