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日本プロゴルフ選手権 2009
ツアーデビューの堂本新太朗が首位タイ
17番で、この日最大のピンチを迎えた。左の池を嫌がって、右を向いたら「今度は右に行きすぎた」。
カート道路のさらに奧まで打ち込んだ。
洋芝でのラウンドは、今週が初めての経験だったが、アプローチで上手く寄せてしのいだ。
前週から先入りしてここ恵庭カントリークラブを回ったが、「40、40の80とかばっかり打って…」。
難しさに悲鳴をあげていたものだが、バッグを担ぐ先輩プロの出石幸喜さんの献身的なサポートもあって、いざ蓋を開けたらボギーなしの65だ。
息子のデビュー戦を見るために、家業の理髪店もさておき京都府亀岡市から日帰りで飛んできた正美さんには「絶対につらい顔を見せない。今日は楽しんでゴルフをする姿を父親に見せよう、と」。
満面の笑みでプレーを終えて、有言実行。
前日の初日が大雨で中止となり、仕切り直しの第1ラウンドが、この日で良かった。
「若いころは、歯向かったりして迷惑かけましたから」。
初日の好スタートに「何よりの恩返しになりました」。
はんなりとした京都弁で、しみじみとそう言った。
正美さんの手ほどきで、ゴルフを始めたのは小6のときだ。
プロを意識しはじめた長男に、父親は言った。
「プロになるなら、プロに教わったほうが早いやろう」。
その一声で、平安高校を1年で中退。府内のプロゴルファー養成のゴルフ専門学校に入学した。
同校を主宰していたのが、このプロ日本一決定戦「日本プロゴルフ選手権」で、大会副会長の前田新作プロだった。
前田プロは振り返る。
当時、54人の生徒がいたが、「その中で一番、ゴルフが好きで、一番練習していたのが彼でした」。
そして、学内のプロ第一号も堂本だった。
2005年に吉報を聞いた際も、「教えた甲斐があった」と嬉しかったものだが、初めてトーナメントに出場したこのビッグイベントで、教え子が首位タイでスタートしたことは、また格別の喜びがある。
しかし、ツアーの出場権すら持たず、31歳のいまもまだチャレンジ止まり。それもこれまで2試合しか出たことがなく、今大会は独自の予選会を突破して出番を得た。
「ツアーに一度も出えへんで(出ないで)死ぬん(死ぬのは)は嫌やと思ってたから。ここにいられるだけで夢のよう」。
いきなりの好発進に、ちょっぴりのぼせ上がった感じの本人に、“師匠”からさっそくカツが入った。
「なる、なれる、なるんやと思え!」。
当時、学校で前田プロが自身の経験を踏まえて生徒によく言った言葉だ。
つまり「なりたい、ではない。夢を持ってなれるんやと思ったら、必ずなれる」ということ。
1984年に賞金王に輝いたときの自分がまさにそうだったからだ。
「とにかく頑張ってと尻を叩く事しかできないが、このまま日に日に成績を上げてくれたらなお嬉しい」。
初日の好スコアに甘んじず、さらに上を目指せと師匠は言っている。それに、世話になった父と、師匠への恩返しが、たった1日では物足りない。