記事
2003 アジア・ジャパン沖縄オープンゴルフトーナメント 2004
無欲で挑んだ最終日!チャンピオン谷原秀人
頭をはたかれた。
「このヤロっ」といいながら、祝福の握手。
今年6月、マンダムルシードよみうりオープンでも最終組のジャンボを逆転で下し、 ツアー初優勝をあげていた 。
そのときもジロリ、と横目でにらまれたものだ。
そしてこの2勝目も、ジャンボ尾崎を下して勝った。
「またまた、やっちゃいました」天真爛漫な笑顔が、澄んだ空に輝いた。
前週のオフ週、風邪をひいた。
2つほどコンペに参加しただけで、あとはほとんどクラブが握れなかっ た。19カ国の選手が参加したこのアジア・ジャパン沖縄オープンは、2003年の開催ながら、獲得賞金は 2004年に加算される。
来シーズンの第1戦、とはいうものの2003年シーズンは1週前に 終わったばかりで気持ちの切り替えは難しく、「予選通過くらいはしたいな」まったく無欲で挑んだトーナメントだった。
最終日も、勝つつもりはまったくなかった。
しかも2番の第2打でハーフトップ気味の球を打ってグリーン奥。ボギーとし、ますま す可能性はなさそうに思われた。
それでも気を取り直し、この状況から「どれだけ攻めていけるか」。それを課題に無心でプレー。
コースの途中はほとんどスコアボードがなく、「いくつ出せば勝て るんだろう?」。
いったいいま自分が何位につけているのかさえも見当もつかなかったが、たまに顔をのぞかせるプレッシャーは、考える間を極力作らないよう「構えたら すぐに打つ」方法で封じ込め、風のサザンリンクスを突き進んだ。
ハーフターンで東北福祉大の後輩、宮里優作が猛チャージをかけていることを知っ た。
「このやろうっ」ライバル心むき出しで、バックナインもとにかく攻めた。
15番で残り70ヤードの第2打を1.5メートルにつけてバーディを奪ったとき、ようやく、順位が確認できたという。
通算10アンダーで、「いつのまにか」2位以下と4打差ついていた。
だから、ほぼ勝利を決定づけてウィニングパットを決めた18番グリーンでも、「勝った」という実感が持てなかった。むしろ、先輩の2勝目を祝福しようと待っていてくれた宮里のほうが、よほど感激していたくらいだ。
「よっ、社長っ!!さすがですっ!」(宮里)
「・・・おまえのほうこそ、さすがだな」(谷原)。
歓喜にひたるというよりも、宮里の2位浮上を笑顔でたたえるなど、終始冷静なままだった。