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ダンロップフェニックス 2010
トム・ワトソンは「遼より1打でも上に行く!」
故郷の米ミズーリ州カンザスシティの自宅の庭には、日本種のフジリンゴを植えていた、ともいわれる親日家は「日本のみなさんは、来るたびに僕に尊敬の念を持って、接してくださる。それがいつも本当に嬉しくて。ぜひ、プレーでお返しをしたい」。
12年ぶり19回目となる大会への意気込みを、そんなふうに語った。
このダンロップフェニックスは、1979年の第6回大会に初出場して6位タイ。そのあとは、大会の常連として、ほぼ毎年出場を続け、1980年と1997年に、2度の優勝を含めてベスト10入り12回という成績に、コースとの相性の良さはずば抜けている。
「あのころよりも、距離も長くなり、バンカーも戦略的に配置され、以前よりますますフェアウェイが狭く感じられるよ」と、様変わりしたフェニックスに目を丸くしながらも、「でもドローヒッター有利のレイアウトは相変わらずだ。今も、距離で勝負するコースではないし、それは61歳には良いことだよ」と、ニヤリと笑う。
「どんなコースでも、好スコアの元になるのは、アイアンの距離感。成功したプレーヤーは誰でも、自分の飛距離を正確に把握して、アイアンを打ち分けられる技を持っている」とは、自らの成功体験も、もちろん含まれているはずだ。
テレビのインタビューを受けて「今週は遼くんよりも、1打でも上に行く」と、茶目っ気たっぷりに答えたともいわれる。
ここ宮崎には思い出も、いっぱい詰まっている。
それはコース内に限らず、街に繰り出し美味しい郷土料理に舌鼓を打ったり、足を伸ばして相撲観戦に出掛けたり・・・。
そのかたわらにはいつも、大切な親友がいた。
長く専属キャディをつとめたブルース・エドワーズさん。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病を宣告されてから2004年に亡くなるまで、15ヶ月の闘病生活は、ワトソンにも大きな影響を与えた。
石川遼はワトソンについて、「いつも淡々と一喜一憂することなくプレーする姿には感心させられる。どうしたら、そういうプレーが出来るようになるのか」と、常々感じていたという。
そんな19歳の疑問を伝え聞いたワトソンは、フッと優しい笑顔を浮かべて言った。
「いや、顔に出ていないだけで、僕だってミスしたら怒るしナーバスにもなる。でも、それを受け止めて、その場は忘れる。技術的なものは、あとで練習場で調整する。そういうことを、いろいろ経験して積み重ねてどうすれば自分に一番ベストなのか。学んでいけばいいのだと思う」。
そう答えたワトソンだが、エドワースさんが亡くなったときは、こうも言っていたそうだ。
「1日を全力で生きること。些細なことで怒ったり、イライラしないこと。ブルースの病いを知ったとき、その2つが僕の人生のテーマになりました」。
ALSとは、筋肉が萎縮して運動障害を引き起こす原因不明の病いと言われ、いまだ治療法は確立されておらず、手足の筋力低下から言語障害、呼吸障害にまでおよび、徐々に自由を奪われていく。病いの宣告は、死の宣告を受けるのと、ほぼ同義とも言われる。
それでも「死んでもすべてが終わるわけじゃない」と、最後まで前を向いて生きた大親友を失って、ワトソンはそれまで以上に、より良く生きることを、自らに課した。
そんな生涯の友との日本での思い出が、いっぱい詰まっているのが、ここフェニックスでもある。
関係者の間では、これが日本でのラストゲームとも囁かれるが、ワトソンは笑顔で首を振る。「それはまだ分かりませんよ。私は日本が本当に大好きですから。とにかく、今週はいつものとおり、試合でベストを尽くすだけです」。柔らかな笑みに、枯れることのない闘志をちらつかす。
ワトソンの参戦に、19歳も胸を躍らせる。
「ファンの人にとっても待ちに待った瞬間。12年ぶりに、日本でプレーしようと決断してくださったことが嬉しい。今週は特別な1週間になると思います。その中で、僕も一緒にプレーさせていただけるのは、とても光栄なこと」と、石川もその瞬間を心待ちにしている。