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フジサンケイクラシック 2011
諸藤将次がツアー初優勝
正午すぎのホールアウトも、まだ順位決定とは言えなかった。
「本当ならこう・・・ガッツポーズとかするところなんですが」。思い焦がれていた優勝シーンとは、ちょっと違う形になった。ラウンド中の選手への気遣いもあって、一応は歓声に応えて右手を上げる程度にとどめておいたが、この時点で通算6アンダーは、タフな条件にあとからこれをしのぐ選手が出てくるとも思えない。「まだ確定じゃないですもんね」と口では言いながら、自然と笑いが込み上げてくる。
台風12号の影響をもろに受けた4日間。初日は中止。2日目、3日目と度重なる競技中断。第2ラウンドの残り競技を7時から再開したこの日の最終日も朝は激しい風雨が吹き付けた。
それでも飛んで曲がらない自慢の飛距離は、大型の台風にも負けなかった。難条件にも3つのバーディ先行で、一時は2位に6打差をつける勢い。
中にはもちろん試練もあった。12番で、ぬかるんだバンカーから「トップした」とこの日2つめのボギーには「急にドキドキしてしまった」と、13番でもまたボギー。2打差まで詰め寄られて重圧に負けそうになったとき、キャディの臼井泰仁さんに言われた。
「追いかけるほうが、もっとキツイ。まだこれからだよ」。
気持ちを切り替えた次の14番は、ワンオン狙い。328ヤードのパー4は前方のティインググラウンドからグリーン手前のラフに運んで1メートルのバーディを奪い返した。17番パー5は奧からのプローチを60センチに寄せて、最後は危なげなく逃げ切った。
ようやく堂々と、優勝の喜びを語れたのはそれから3時間も経ってから。全選手のホールアウトを待って行われた表彰式。ギャラリーの前で改めて万歳ポーズでキメた。伝統の優勝杯「双頭の鳳凰“悠翔”」を何の気兼ねもなく高々と掲げて、「これまでに感じたことがないくらいに嬉しい」と笑み崩れた顔が、今度はふいにゆがんだ。
「すいません、思い出すだけでこうなってしまうんです」と、目を真っ赤にして涙ぐむ。最愛の母を亡くしたのは昨年2月。皮膚ガンだった。一昨年10月の手術で完治したと一度は喜んだが、そのわずか1ヶ月後に病いは全身をむしばんでいた。享年59歳。あっという間に逝ってしまった。2歳でゴルフを始めたころから、誰よりも活躍を喜んでくれた人だった。
「怒られたこともなかった」。父親の保史郎さんの躾が厳しかった分だけ、なおさら大きな愛で包んでくれた。最愛の人を失って「何もやる気がなくなった」。
だが、そんな優しい母でも「さすがに僕が練習をサボったら怒るだろう」。兄の誠一郎さんと、姉・真千子さんと残された父親と。母の遺髪を入れた揃いのペンダントを作って「家族みんなで乗り越えよう」と、約束した。
再起を誓った諸藤家の末っ子は、その年6月から一念発起で肉体改造に踏み切った。名トレーナーの大川達也さんに師事していちから体を作り直した。
本気を出せば、330ヤードは優に超えるという飛距離は「今では7割の力で振っても300ヤードは飛ぶように」。特に体幹を鍛えるメニューに、安定感も加わった。
ここ富士桜は7437ヤードのパー71と、距離の長さに加えて連日の豪雨も、諸藤には都合が良かった。好天なら飛びすぎを警戒して刻むホールも、地面が湿ってランが出ない分だけちゅうちょなくドライバーを強振出来る。刻んでも、スプーンで絶好の位置まで持って行ける。「雨が味方してくれたと思います」。台風が、むしろ追い風になった。
母もそんな息子の雄姿を見届けてくれたと思う。鳴り物入りで2006年にプロ転向したものの、ツアーの予選会にあたるクォリファイングトーナメントは2008年から2年連続でサード落ち。
出場権さえない息子を誰より気にかけていたのも母だった。家族を代表して応援に駆けつけた「兄ちゃん」に、託された遺影をしっかりと両手に抱えてしみじみとつぶやく。「出来るだけ早く優勝を報告したかったので」。次の帰郷の折には、墓前にウィニングボールを捧げるつもりだ。