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宮里優作がいちばん伝えたかったこと【インタビュー動画】
そのために、父親の優さんの手ほどきで、3歳からゴルフを始めたことや、出身の沖縄でのスローライフ。また、今の優等生然とした風貌からは、思いもつかないことだが、小・中時代はケンカっ早くて、友達に怪我をさせては、当時は教育委員会につとめていた優さんに引きずられて、相手のおうちや校長室に、お詫び行脚をした苦い思い出。
また仲良しだった先輩からのイジメに合った悔しい記憶や、人生最大の出来事となった結婚と出産(奥さんの)など、そんな生い立ちを語るのも、予定よりもさらっと済ませてしまって宮里が、何度も子どもたちに言い含めたのは、「夢は出来るだけ早く持って、動き出したほうがいい」ということ。
宮里自身、「プロゴルファーになる」と書いた文集が、実家にもまだ大切に保管されているくらいだから、早くからその気持ちはあったようだが、それでも最初のうちはどこか漠然としていた。
小学生のころは、ゴルフよりも野球の練習を優先していたし、これまた意外なことに「俳優になりたいという、もうひとつの夢もあった」。
アクションスターのジャッキー・チェンさんに夢中だった。「マネをして、階段から飛び降りたり」。それでまた先生に叱られて、優さんが学校に呼び出されるのだが、ちっとも懲りなかった。今も、もしもプロゴルファーでなかったら、何になっていたと思いますかと質問されたら迷わず「俳優」と答える。
「言うたびに、大爆笑されますけど。あの頃は本気でした」と笑う。そんな寄り道(?)もあって、本気でプロゴルファーを目指すのは沖縄を出て、大阪の桐蔭高校に進んでからだった。十分に早い決断だったとは思うが、それでも本人は後悔しているという。
「夢をかなえる力というのは早ければ早いほど大きくて、実現させるエネルギーも強い。自分ももっと早くから決めていれば、もっと早くからそれに向かって動き出せたんじゃないか、と」。
出遅れたという反省があるから、この日も子どもたちに何度も繰り返した。「夢を決めたらそれを紙に書こう。そしてそれを大人になるまで大事にしまっておいて欲しいんです」。心で願ったことを、実際に口にしたり、書いたりするのとしないのとでは、夢を叶える力にも大きな差が出ると宮里は考えている。
たとえ途中で夢が変わってしまってもよいのだ。
とにかく、紙に書くことが大事で「字にすることで、これから夢を叶えるために何をすべきか。歳を重ねるごとに段々具体化して、さらに夢への距離が近くなる」。だから子どもたちにも「書いて残して」と熱心に訴えながらも、実際にほとんどの子が、プロがそう助言するなりすらすらとペンを走らせていることに、宮里は内心驚いていた。
言いながらも心配だったからだ。「書いてと言って、果たして今はどれだけの子が書けるのか」。
作間勝司・校長先生が、震災直後にここ山元町立山下第一小学校に赴任したときも、宮里と同じ不安を抱いて来たという。夢を持つことがいくら大事だと言ってもあれほど未曾有の災害を経験した子たちに、夢を抱けというのは無茶ではないか。子どもたちが安心して未来を描く力すら、津波は奪っていってしまったのではないか。
それが凄く気がかりで、作間校長先生が始めたのが、生徒の誕生日にそれぞれの夢を書いてもらう「希望のつばさ」という取り組みだ。夢を記した紙には、担任の先生との2ショットの写真も載せて、誕生日の記念に大切に保存してもらう。宮里がぜひ実践してもらいたかったことを、学校が率先してやられていると分かって、合点がいった。
どおりで講演会の最後に全員にサインをしてやりながら、改めて夢は何かと問う宮里にも、子どもたちはみな、ちゅうちょなく答えるわけだ。しかも、自分が子ども時代には思いもつかなかった横文字の職業を、すらすらと言うので、それにもびっくりした。
さらに講演会を終えて、いったん戻ってきた校長室で、大きな窓からなにげなく校庭に目をやれば、二重の驚き。ついさきほど講演会の最後に、プロにお礼の作文を読んでくれた6年生の加藤周太くんが、ひとり黙々と校庭を走っていた。サッカー選手になりたいと、並々ならぬ夢を抱く加藤くんは、中学からの“本格始動”をにらんで、今は一人シュートに、一人ドリブルで、せっせと腕を磨いているという。今や、校内ではそんな加藤くんの姿が名物となり、「頑張れよ!」「夢を叶えろ」と、放課後にはどこからともなく、声援が浴びせられるようになった。
そんなひたむきな姿に宮里も、負けてはいられない。
「今の僕の夢はマスターズに出ることと、将来は妻と2人の子どもと家族4人でゴルフをすること。実現できるように頑張ります」。そして、子どもたちにも言ったように、自分もひとつ夢を叶えるごとに、さっそく夢を更新してそのたびに、それに向かって邁進していこうと心に誓った。