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青木功トークショー①

<プロデビューから初優勝まで>

大西久光氏(以下、大西):おめでとうございます、・・・というのはね、今年は新年と、殿堂入りと、プロ40周年と。“トリプル”でのおめでとうなんだけど、今日はね、この機会に40年間を、デビューから順番に振り返っていただこうと思っているんですよ。

青木功(以下、青木):そうねえ、…僕の家は貧乏でね。もともと、ゴルフも小遣い稼ぎで始めたことだったんだけど、勉強するよりも体動かしているほうが好きだったし、そのころは野球もやっていてね、体には自信があったし、11歳ころから漠然と「プロスポーツでやってみようかな」という頭はあったのね。
でも、当時ゴルフは会社の部長さんクラスのやるゲームということで、なかなかラウンドもできず、最初のうちはバッグ担いで、ヒマなときに1本クラブを借りて、影でこっそり球打たしてもらえるくらいで。使えるクラブも限られていたし、昔は5アイアン1本で150ヤードとか、120ヤードとかを打ち分けたりしていたのよ。

大西:昔は、7アイアンでバンカーショットしたりしてたよね。

青木:いまでも5アイアンで出せますよ。まあ、ただ出るだけだけどね。ガキのころにやってた技術は、いまでも抜けないものなんだよね。

大西:プロ入りしたのが22歳、そのとき、プロ協会で合格何人目だったっんだっけ。

青木:僕は、240人番目だよ。当時は、プロが240人しかいなかったんだねえ。今はいったい、何人いるんだかね。

大西:う〜ん、ちゃんと調べないとわからないけれど、4000人くらいですかね。

青木:とんでもない人数だよね。

大西:そして、そのプロ入りから7年目の29歳で、初優勝。意外と勝つまでに時間がかかりましたよね。

青木:当時はプロになった、っていうだけで満足しちゃってね(笑)。これでようやく一人前に生活できる、「ばんざ〜い」で終わっちゃって。プロは試合に出てナンボってことに、気づくのが遅かったの。で、5年くらいたって『これはやらなくちゃいけない』って。必死でトレーニングを始めたら、その翌年に初優勝したんだよね。

大西:1971年の関東プロで初優勝したころは、右はしから左はしまで曲がる大フックボールを打っていて、長いパットをボコボコ入れるっていうようなプレーだったね。強めに打って、カップの淵で跳ね上がって入るっていう、青木パットで有名になったよね。

青木:今は、みんなドライバーでボコボコ飛ばして、というプレーだけれど、あのころはパーシモンで、ボールもバラタでね。飛ばないのよ。しかも、ショットは曲がるわ、という中で自分でアプローチ、パターの大切さに気がついて、一生懸命に練習したんだ。古い言葉になるけど、パットイズマネーね、あれを地で行ってたわけ。

大西:やっぱり、強くなる選手はある時期にパットの重要性に気がついて、それで大きくなっていくよね。

青木:やっぱり、僕なんかはパットが良いときに勝ってる。ショットなんかは・・・見に来てくれたお客さんは、「あいつすごい曲がってるよな〜」って、見ていたと思うよ。しかも今の若手みたいにワンパターンのスィングじゃないしね。杉原輝雄さんとか、中村寅吉さんとかもそうだけど、みんな独特のカラーを持っていたよね。

大西:そのあと、賞金王を5回も取って。あのころは1ラウンドで3つくらいロングパット入れて、外からも入ったりしてたよね。その分、3パットもしたりしたけど、でも、ミスもあの有名な言葉で「しゃんめいや」って言ってね。

青木:(笑)だってね、自分でやったことなんだからそれこそ「しゃんめい」だよねぇ(笑)、ヘヘヘ。
  • トークショーの司会進行役、大西久光・日本ゴルフコース設計者協会理事長

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