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バナH杯KBCオーガスタ 2008
甲斐慎太郎「僕も偉大な父に」
口にするたびに、あふれ出そうになる涙を懸命に堪えていたのだ。
稔さんのことを思うたび、泣きそうになる。
「だって親父が大好きなんですもん」。
幼いころは「厳しかった思い出しかない」にもかかわらず、だ。
中2まで、バレーボールをやっていたが「ミスを互いに責め合ったり・・・団体戦のそういうところが面倒になって」。
別のスポーツを探していた甲斐に、ハンデ0の父は「待ってましたというように“ゴルフをやれ”と」。
はじめは興味が持てず、なかば強制的に握らされた父お手製の子供用のクラブを、どこかに置き忘れてきてはこっぴどく叱られた。
あるジュニア大会から帰ってきた甲斐に、稔さんが聞いた。
「なんで負けた」。
「だって風が強かったから」。
と、答えた瞬間に飛んできた鉄拳。
「みんな同じ条件だ。いいわけするな」と、叱られた。
稔さんが「勝手に」進路を決めてきたのは中3の夏だ。
福岡県の沖学園高校は、ゴルフの強豪として知られる。
しかし本人は家を離れるのが嫌で「地元の高校に通いながら、趣味でゴルフをしたい」と訴えたが「そんならゴルフはやめるんだな」と、あっさり退けられた。
そんな“主従関係”が解けて、「友達のように話せるようになった」のは、名門・日体大に進んだころからという。
それまで男女交際を厳しく禁じていた父が、「早く嫁さんを連れて帰って来いよ」と言うまでになり、甲斐が智香さんとの交際をスタートさせたのも、3年生のときだった。
2004年にプロ転向を果たして「ようやく本当に認めてくれたんだと思う」。
序盤に2度の単独2位につけた今季は、7月の全英オープンで初メジャーの舞台も踏んだ。。
地元・宮崎県延岡市で飲食店を営む稔さんはかの地に土鍋を持ち込んで、毎日ご飯を炊いてくれたものだ。
帰国後は「気が緩んでしまった」と、しばらく予選落ちが続いた甲斐を、再び奮い立たせたのはほかでもない。
今度は自分がその父親になるのだという自覚と責任だった。
連戦続きで、1ヶ月ぶりにようやく会えた妻・智香さんのすっかり大きくなったお腹を触り、まだ見ぬ子に思いを馳せて「頑張らなきゃいけない」。
同時に頭に描いたのは、尊敬してやまない偉大な父の姿。
「僕もああなりたい」。
その一心でつかんだツアー初優勝は、9月に控えた出産目前の大金星だった。
18番グリーンサイドで初優勝の瞬間を見守った父・稔さんは・・・
「とにかく、ホっとしたといったところですかね。今年は早いうちに2回2位になったことも励みになっていたと思います。シーズンはじめには、先輩の室田(淳)プロの言葉にヒントを得て、パットが良くなったとも話していたので、そのおかげですね。
また今週は、高校のゴルフ部の監督さんをはじめ、初日から30人近い方が息子の応援に来てくださったおかげです。
プロ転向したあとは、つらい時期もあったようです。アマチュア時代に“九州の怪童”などと呼ばれたことで、本人も形ばかりにこだわった部分もあったのでしょう。
私も、苦しかったら辞めてもいいよ、と声をかけたこともありますが、本人も私には、いや楽しいから続けるよ、と。小さいころから、弱音をはかない子でしたが、まあここまでようやってくれました」。