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ゴルフ日本シリーズJTカップ 2016
2016年の賞金王が歩んできた道のりを、ダイジェストで
フジサンケイクラシックで初出場を果たしたのは千葉学芸高2年のとき。
翌年の日本オープンでローアマを獲った。
当時から、感情豊かではっきりと自分の意見を言った。
ツアー通算30勝の永久シード選手を無邪気に「マッシー」と呼んだ。
早くから、池田の才能を見いだしていた倉本昌弘。
「マッシーとはよく一緒に練習させてもらってる。技術、メンタル、フィジカル。すべてにおいて、学ぶことばかりで、俺はまだまだと思い知らされる」と、語った。
当時から、圧倒的な強さへの憧憬は、人一倍だった。
その年のプロ転向を目指してQTに挑戦するが、ファイナルで失敗。
東北福祉大に進んだ。ゴルフ部主将をつとめ、4年の学生生活を全うして、プロの荒海に出てきた。
週刊誌に「悪童」の見出しが躍ったのはデビューから2年目の2009年。
石川遼と賞金王を争った年だ。
珍しく沈んだ顔で、ぽつりと「俺は、遼クンみたいに上手く喋れねえから。どうせ悪童だよ・・・」。
それでも2013年に、選手会長に立候補してからは「男子の人気を上げて、試合数を増やす」と並々ならぬ意欲で、スポンサーに礼儀を尽くし、懸命に頭を下げて歩いた。
2足のわらじで多忙を極めた怒濤の3年間も、「成績は落としたくない」。
その執念で勝ち星を途切らせることもなく、賞金ランクもトップ10を外さなかった。
感情が高ぶると、ますます口調が強くなる。
思っていることを、真正直に口に出せば、批判を買うこともある。
とりわけ勝負の世界で我を貫ぬけば、それだけハードルも高くなる。
言った以上はそれだけのものを残さなければ、あっという間に背を向けられるからだ。
それでもデビューしてから毎年、強気に宣言し続けた「最多勝利で賞金王」。
やっと悲願達成でも本人にはまだ志半ばとはいえ、そのための準備は今年、例年以上だった。
3期連続でつとめた選手会長の重圧をいったん下ろし、道具を一新し、トレードマークの角刈りをやめ、ジャンボ尾崎への心酔からあれだけ頑固に変えなかった“3タック”のパンツも、あっさり脱いだ。「飽きたからかな」と本人は冗談めかしたが、30歳を契機に何かを変えたい一心だった。
「会長職はハンパなく大変。でも今年は自分のゴルフにすべての時間をつぎ込めた」。
自身の時間を削ってまで、会長職に打ち込んだ。昨年まで3年の鬱憤をはき出すようにオフは一念発起の筋トレに励み、体もいちから作り直した。
112年ぶりにゴルフが復活した8月の五輪は片山晋呉と、リオの地に立ってからというもの「オリンピック選手として、恥じないゴルフをする」といっそう肝に銘じた。
日本代表の自覚を胸に、大学の先輩の谷原秀人と抜きつ抜かれつ、特に全身全霊で走り抜けたシーズン終盤戦でもあった。
悪童と呼ばれ、ひそかに傷つきながらも、あのとき池田は「遼がツアーに2人もいても、それはそれで面白くないもんね?」と自分に言い聞かせるように言った。
誤解も批判も恐れず、信念を曲げない強さ。
自らリスクを背負って、やり遂げる志の高さ。
人前ではあえて強気に肩で風を切りながら、ふと見せる思いやり。
細やかな心配り。
2011年に、大地震と大津波が襲った仙台は、大学時代を過ごした第二の故郷。
すぐに現地に入って被災地支援に奔走してきた。
選手会長時代も毎年、公約に掲げて必ず東北に帰った。
老若男女問わず、困っている人がいたらほっとけない。
面倒見の良さは折り紙付きだ。
池田をよく知る人なら誰でも言う。
「勇太はいい子だよ」。
一度でも素顔を垣間見た人を、惹きつけて離さない。
言うなれば“ギャップ萌え”。
今年の賞金王の魅力のひとつである。