すでに確定して今大会に入ったが、父親の洋(ひろし)さんは、息子の戴冠から1週間が過ぎた今も「朝、目が覚めたらウソみたい。夢だったんじゃないかと思うことがある」という。 ドン底から頂点へ。比嘉一貴が史上もっとも小さなキングに輝くまで
地元、沖縄県の本部高校から寮生活だった。
大学も、宮城の東北福祉に進んだのでひとり立ちしてもう長いが、「よけいに遠いところに行ったみたい。子どもが子どもでないみたい」と万感の思いで、我が子の今年最後の1日を見守った。
運動会の振替日に洋さんが連れていった初ラウンドで突如「98」を出したのは小4の時。
部活のハンドボールに夢中で、ゴルフには興味を示さず、クラブを握ったのもその日が初めてだった息子が、母親の恵子さんには帰ると即「プロゴルファーになる」と、宣言したそうだ。
1日3000球の猛練習を開始し、ひと夏でシングルに。
「休日は朝4キロ走らせてから、7時にレンジに送り届けて、夜中12時まで。私は鬼親だったと思います」と洋さん。
「でも本人には反抗期がなかった。親にはとても優しい素直な息子で、練習も黙々とした」と一気にトップアマに上り詰めたが、悲願の「日本アマ」では2位が3回。
2012年も、14年もそして16年も、ついに優勝には手が届かず、「毎週続くプロの試合と違ってあれは年に一度でしょう。本人が一番悔しかったと思うが『お父さんごめんね』と私に謝った。いま思い出しても泣けてきます」(洋さん)。
中学時はジュニアの中でも高身長の部類だったが、高校時代にケガを診てもらいに通った整形外科で、付き添いのお母さんと身長止まりの宣告を受けた。
「診察室で息子と2人でえっ…となりました。私はしばらく言葉も出ませんでした」と、あの日のショックは恵子さんにも忘れられない。
「でも、あの子はいつも、そういう壁にぶつかったときほど強くなっていった気がします。人一倍負けん気が、強いんですね」。
出場順位をかけたツアーのQTは高校卒業時と、大学4年のプロ転向時に挑戦して、2度ともサードで大失敗。
「高校は直前に骨折です。大学の時は、泣きながら電話をしてきて『失格した』と。あんなに泣いた一貴は後にも先にも初めてでした」と、恵子さんは振り返る。
「でも泣きながら、すぐアジアのツアーを受験すると言う。何がなんだがわけもわからず、言われたとおりに飛行機を手配して。次の年には優勝して、最後は日本のシードというのも獲れちゃったと。本当に、私はわけもわからずあら~そうなのね、おめでとうと言いました」と、あの日もまるできょうのよう。
「先週から、本当にたくさんの皆様からおめでとう、と言っていただいて、本当にありがとうございます、なんですけれど、私にはまだそういう一貴が、一貴でないようにも思えます」。
たまに家に帰れば、12歳年下の弟・祐貴さんの進路を気に懸ける優しい“にいに”だ。
「小さいときから本当にゴルフゴルフで、この子は結婚できるかしらと心配したこともありましたが、今では素晴らしいお嫁さんにも支えられ、逆に母親の私がちゃんとしなさいよって叱られます」と、息子の独立が誇らしい。
父親の洋さんにはいま、ひそかに夢見るシーンがある。
「欧米選手の中で、あの子どもみたいに小さな選手が優勝するところ。158センチって、向こうでは小学生くらいの身長じゃないですか。そんな選手が欧米の大きな選手に勝ったら本当に凄いよね」と、想像するだけで痛快だ。
「他の人にはできないこと。それが一貴のトレードマーク」と、改めて賞金王の息子を称えた。