Tournament article
久光製薬KBCオーガスタ 2001
「こんなに、幸せなことはない」
24年後の夏、平石が、再び栄冠を手に入れた。
1977年、兵庫・東洋大姫路高校・野球部5番レフトで夏の甲子園を制した思い出がある。
「あのときは、仲間と分かち合いました。団体と個人。種類は違うけど、あのときと、喜びの度合いは一緒。こんなに、幸せなことはない。言葉が浮かんでこないくらい、幸せです…」
最終日のこの日は、本戦とプレーオフをあわせ約6時間。気温30℃を超える炎天下の中での長期戦だった。
プレーオフでは、まず1ホール目に同じ41歳の加瀬を倒すと、年下の桧垣にしぶとく食い下がり、とうとう4ホール目には、その桧垣もねじ伏せた。
プレーオフホールは18番パー5。「無理して攻めて、ボギーにしたら悔いが残るから」と、4ホールとも、「ティショットできっちりフェアウェーをキープし、グリーン手前に刻み、ピンに寄せる」を繰り返した。
「それでダメやったら、しょうがないじゃないですか」頑固に信念を貫けたのは、野球部時代に経験した、厳しい練習生活のたまものだった。
朝6時半から8時、放課後は3時から8時まで。さらに練習後の体のケアをして帰宅すると、毎日0時を回っていた。
「あのころの練習量は、半端じゃなかった」と、平石は振り返る。
でも、そんな厳しい練習を積んだからこそ、ナインたちには自信も生まれた。
「あんなつらい思いを耐えてきたのだから、勝てないわけがない」がチーム全員の思いだった。
「練習は、やったらやっただけ、結果が残る。それでも負けたなら、仕方ない…。この考えは、あの厳しい練習で身についたものです。また、全国制覇を果たしたあと、すぐにゴルファーを目指しましたが、あの経験があったから、どんな練習にも耐えられました」と平石は言う。
チーム一丸となって苦しみを乗り越えた思い出が、24年たった今でも、平石の原動力だった。
ゴルフツアー生活に、諦めの気持ちを抱いたこともあったが、それでも、練習は毎日やった。毎朝1時間のランニングも欠かしたことはなかった。
「一生懸命やったことは、必ず報われる」を、平石は、ツアー19年目にして、再び、身をもって示したのだ。