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カシオワールドオープン 2003

初シード入りから4年目にしてようやく果たせた今井克宗の親孝行

「生んでくれてほんとうにありがとう!」
初シード入りから4年目にしてようやく果たせた今井克宗の親孝行

二浪の末にようやく入った法政大学時代。猛勉強の反動からか、合コン、飲み会に明け暮れたおかげで、1年で留年が決まった。そんな今井に転機が訪れたのは、当てのない日々を過ごしていた21歳のある日のことだ。友人がふいに言ったのだ。

「おまえ、ほんとうは、プロゴルファーになりたいんじゃないのか?」。

小学生の頃のこと。秋になると父親の経営するクラブ工房『今井ゴルフ商会』が多忙を極める1週間があった。千葉県・袖ヶ浦CCで開かれるブリヂストンオープン。会場から工房まで車でたった2分ということもあり、青木功やトレビノ、ファルドなど、錚々たる面々が、コースの行き帰りにフラリと立ち寄るようになっていた。そのたびに彼らの要望にこたえ、ロフト、ライの調整、グリップ交換など次々にこなしていく父の姿は、今でもよく覚えている。1981年には、お客のひとりだったヘール・アーウィンが優勝し、最終日の夕方、感謝の気持ちをこめて、父に記念のポロシャツを置いて帰ったのには、大いに感動を覚えたものだ。

内心、彼らプロゴルファーにも憧れていた。しかし、「まさか俺なんかが」との思いもあった。職業柄、プロの厳しさを目の当たりしていた父は、本人以上に否定的だった。

大学を中退してプロになる、と打ち明けたとき猛反対にあった。それでも決心の固かった今井に、父がひとつの課題を与えた。「どうしても、と言うならこうしよう。オマエがもし、この 1年で日本アマに出られるようなことがあれば認めてやる。それができなければキッパリ諦めろ」。

父親はまさか、息子がそれを実現させるとは夢にも思わずに、言ったのだろう。人が変わったような猛練習の末に、その1年後に堂々とノルマを果たして親の許しを得た今井は、持ち前の行動力で日本を飛び出し、アメリカのミニツアーを転戦。年々、めきめきと腕をあげ99年には、その年はじめて導入されたツアー出場優先順位を決める予選会『ファイナルクォリファイングトーナメント』でランク42位につけた。本格参戦を果たした翌年2000年シーズンには、賞金ランク70位に食い込んだ。

あれから4年目にして味わう頂点に、「時間がかかった、とは思わない。むしろ早すぎたくらい」と今井。「10年前には、生まれてこないほうが良かったと思うくらい、迷惑かけどおしだった時期もあったけど、そんな俺にこんな素晴らしい瞬間が来るなんて・・・。父ちゃん、母ちゃん、俺を生んでくれてほんとうにありがとう!」最高の形の親孝行が、実現できた。

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