Tournament article
サン・クロレラ クラシック 2005
深堀圭一郎「期待に応えられる選手になりたい」
たとえば、女子の宮里藍選手のように、ファンの期待を一身に背負う重圧を感じてもなお、次々と結果を残していける選手。
そういうプレーヤーが、いまの男子ツアーには残念ながらいない、と思う。
そしてもちろん、自分こそがそんな選手にならなければならないのだと、自覚していた。
「期待に応えられる選手になりたい」。
そういう気持ちを誰よりも持ちながら、体が思うようにならなかった。
2003年の日本オープンを制し、その資格で出場権を手に入れた翌年の全英オープン。練習日に腰痛を悪化させてから、苦闘は始まった。
治療のための、さまざまな試行錯誤は果てしなく続いた。それは日々の練習やトレーニングだけにとどまらず、深堀にとっては普段の生活自体がそれだった。
それこそ、食事の摂り方から、睡眠をとるその方法まで。
なにひとつとして手を抜かず、どれも治療の一環と考えて徹底的に取り組んだ。
今年、股関節痛を併発してからは、毎晩凍えながら氷風呂に浸かる荒療治も取り入れた。
この難コースを制して手に入れたツアー通算7勝目は、復活を目指してひたすらに続けた努力の成果だ。
再び頂点に立って、「こんなにも、僕の優勝を待ち望んでくれていた人たちがいた。それに気づかされた」と深堀はいう。
プレーオフを見越し、球を転がしていたパッティンググリーン。
星野がパーパットを外して優勝が決まった瞬間、それまでずっとそばについてくれていた榎本真之さんの目が、見る間に赤く染まっていった。
深堀のマネージャーになって3年目。
「初めて優勝を、経験させてもらった」と感極まって、榎本さんはしばらく涙が止まらなかった。
今大会主催の北海道放送で、大会事務局をつとめる山田一人さんは、「ありがとう」と言って、深々と頭を下げた。
第1回大会が行われた2000年、深堀の高校の先輩でもある山田さんに深堀が約束してくれたのだ。
「僕が勝って、大会を盛り上げます」。
それは、毎年2人の合言葉になった。
「・・・それをこうして叶えてくれたことが、本当に嬉しくて。感謝の気持ちで一杯です」と、山田さんは胸を押さえた。
深堀の父・孝さんはこの週、月曜日から息子と一緒に会場入りして寝食を共にした。
「3日目に勝てそうだ、と言って応援に来るのでは当たり前ですからね。今回は、初めっから見守ってやろうと思ったんです」。
この日最終日に14番ホールで2打差がついたとき、マネージャーの榎本さんはつい「今回は、もうだめだ・・・」と口走ってしまった。それを大きく否定したのが孝さんだった。
「諦めるのはまだ早い。今日は息子が勝つような気がする。じっくり待ってやろう」と、力強く言ったそうだ。
家族や関係者だけではない。
大勢のファンが、深堀の優勝を待っていた。
それは何より、地元・小樽の大ギャラリーの歓声が物語っていた。
満員のスタンドに向って深堀は、頭を下げた。
「・・・みなさんの声に支えられました。今回の優勝はほんとうに、みなさんのおかげです!」
大親友、丸山茂樹のように、アメリカで戦うのが目標だった。
Qスクールを受けて、現地に常駐して・・・というのが以前の理想の形だったがいまは、ほかにも道があるかもしれない、と考えている。
「米ツアーにスポットで参戦して、メジャー出場の回数を増やし、そこで得たものを持ち帰って日本のファンに披露する」。
今年37歳、プロ入り14年目。そろそろ中堅と呼ばれる年になり、そんな恩返しの方法もありだと思っている。