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『紫綬褒章を祝う会』で青木功が「ゴルファーでよかった」
そこには、長嶋茂雄 巨人軍終身名誉監督を始め、北島三郎氏などが来場した他、ゴルフ界からは片山晋呉・横尾要・宮瀬博文・丸山大輔・近藤智弘ら、親交が深い選手も挨拶に訪れた。
また、グレッグ・ノーマン、ジャック・二クラウス、アーニー・エルスから寄せられた手紙やビデオレターが紹介された。
1980年には全米オープンで2位に入るなど、海外ツアーに果敢に挑戦して人脈も幅広い“世界のAOKI”の人気ぶりが証明された。
青木は千葉県我孫子市出身で、14歳の頃から我孫子ゴルフ倶楽部でキャディのアルバイト生活を始め、1964年のプロテストに合格。
1965年『関東プロゴルフ選手権』でプロデビューし、同大会で1971年に初優勝を果たした。
1978年から4年連続で賞金王を獲得、1983年には『ハワイアンオープン』で日本人初の米ツアー優勝、1989年に豪州ツアーの『コカ・コーラクラシック』で優勝したことで、世界4大ツアーの全てで優勝するという金字塔を打ち立てた。
今年も衰えを見せることはなく、シニアツアー「鬼ノ城シニアオープン」で自身2度目となるエージシュートを達成し、シニアツアー最年長記録となる66歳2ヶ月での逆転優勝を果たした。
数え切れない輝かしい記録を称え、パーティの冒頭の花束贈呈では、サプライズゲストとして石川遼と宮里藍から手渡された。
日本オープンで同組となった石川は「青木さんの近くでゴルフをして、色々と学びたいと思います。」と緊張した面持ちで話す。宮里藍も「これから20年も30年もずっとずっとゴルフを続けて欲しい」と、人生で一番尊敬する大先輩にお祝いのコメントを送る。
今日のお祝いに青木功は「自分がやってきた事を目標にしてもいいと思うし、若い選手を育ててみたいなという希望もある。自分がプレーしている姿を見せれば、子供たちも自分の年齢までとはいかないけど、やってみようかなと思ってくれると思うよ。」と話す。
最近になって、特に周りへの感謝とゴルフ界に貢献をする事を再三、口にしてきた。
「自分ひとりだと絶対にもらえない賞だと思うし、今はゴルフに没頭できる環境がある。見てくれている人達の感動や寂しさを抱き合わせてプレーしてるんで、家族や友達やファンに支えられてできてるんだって思った。」
「この賞の喜びは今は会えないけどお袋や親父にもらえるようになったよという報告がしたかった。どっちでも良いけどどちらかが生きてたら、どのくらい喜んでくれるんだろうなという思いはあったよ。それが一番最初によぎったよ。」
目標は生涯現役。
「もう1回自分のゴルフを見つめてみたい。青木功はゴルフをつきとめてやろう。明日死んでも、悔いが残らないぐらい没頭してやりたいなと思うよね。」
そう思い、もう一度ゴルフに向き合う覚悟だ。
最後にこの言葉で締めた。
「ゴルファーでよかった。この一言につきるよ。」
夫人のチエさんのコメント
「みなさんに国からいただいたものなので、みなさんとご一緒にこの受賞を祝いたいと思います。」