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谷原秀人が「夢を持とう」をテーマに先生を務めた

黒板に30年間の人生年表を記した“谷原先生”
決して饒舌な選手ではない。しかし、だからこそ子供たちの心に深く伝わることがある。今回の一連の小学校訪問は、ゴルフの魅力を伝えること。そして子どもたちに、将来の夢を持ってもらうことが目的だ。

もちろん、今はまだ夢がなくてもいい。たとえ初めはぼんやりとしていても、やがてはくっきりとした目標を子供たちが持てるよう……。
“夢の実現者”であるプロゴルファーがその一助になればとの願いをこめて、それぞれ授業の1時限を受け持つ。

谷原も「一人ひとりが夢を追求して頑張ってほしい」との一心で教鞭をとった。
少しでも子供たちの参考になればいいと、これまでがむしゃらに走ってきた自身の30年間をとつとつと振り返りながら、丁寧に順を追って話し始めた。

地元・広島県尾道市で谷原が最初に夢中になったのは、野球だった。
小学校6年までの3年間。すすんでキャッチャーをつとめたのは、チーム全体の動きを見ることができるからだ。「逆に、みんなが僕を見ている。ピッチャーも、必ず僕に投げてくる」。その支配感が、最高だったという。

ゴルフを始めたのは中学になってからだ。父親の勧めで渋々だった。野球への未練もあった。団体から個人戦への戸惑いも。練習だって、いつも一人だ。
「はっきり言ってゴルフが大嫌いでした」と、子供たちに正直に打ち明けて笑わせた。

そんな心に変化が起きたのは、初試合だ。友達にスコアで負けたことで火がついた。
「悔しい! あいつに近づきたい」。
塾はほとんどさぼったのに、ゴルフの練習だけは休まなかった。大好きなことならいつまでだって続けられるのだ……!!

中3で全国大会に出場し、まだまだ上があることを知り、各地に友達も増えて、ますますのめり込んだ。
広島県・瀬戸内高2年の全国大会で優勝。
仙台・東北福祉大時代は、親元を離れての寮生活。
朝7時起床の1日は、まずトイレと風呂掃除から始まったがこれこそが、他校にない団結力を生みまだメジャーでなかったチームを全国一番に押し上げた、と谷原は思っている。

野球から転向した際は「ひとりぼっちでつまらない」とさえ思えたゴルフが谷原に、団体戦の責任と重さ、そして何より楽しさを伝えてきた。

プロになるつもりはなかった。
しかし、卒業を間近に迎え、やっぱり自分にはゴルフで生きていくしか選択肢が見つからなかった。

ひとたび目標を決めたら、自然と体が動いた。
朝7時から夕方まで、毎日練習とトレーニングに明け暮れ、思い切ってアメリカにも渡った。ミニツアーで8戦6勝をあげたころには「絶対にプロになろう」。決意と自信を持って帰国した。

いざ夢をかなえてプロになり、トーナメントという新しい環境に「自分の居場所がない」と感じた谷原がとった作戦はずばり「笑顔と挨拶」。
「先輩に受け入れてもらうため、大きな声であいさつしよう」。
初めはちょっぴり抵抗もあった。でもニコニコ大きな声で挨拶すると、まずは顔を覚えてもらえる。そのうち先輩からも、必ず声をかけてもらえるようになる。

24歳でツアー初優勝。通算8勝。昨年まで3年連続で賞金王争いにも加わって、谷原のゴルフ人生は順風満帆といえるだろう。
だがそれも困難や苦難にぶち当たるたびに谷原が、夢や自信を失わず、自分なりに努力や工夫を凝らし、壁を乗り越え、くじけることなく懸命に歩いてきたからこそだった。

熱心に耳を傾けてくれた子供たちに伝えたかったのも、まさにそのこと。

「ゴルフは人生に似ている」と谷原は、授業の最後を締めくくった。
人生は辛いことのほうが多いかもしれないが、その分、嬉しいことがあり、苦しかったときのことを忘れさせてくれる。
ゴルフもミスをすることはあるが、パーディやイーグルがそれを忘れさせてくれる。
「人生とゴルフは繋がっている」と、力強く説いた谷原を、美しい笛の音が包んだ。

熱弁をふるった“1日先生”に、子供たちからのプレゼント。6年生108人によるリコーダー演奏は「ふるさと」だ。

2006年の全英オープンで5位。世界に通じる活躍をしながらも、いつも谷原の心にあったのは、ここ広島で過ごした日々だった。
“ふるさと”は、いつも胸の中にある。だからこそ、どこに行っても思い切って戦える。
この曲を選んだみんなに内心、舌を巻きながら谷原は、この日出会った子供たちに、今年の活躍で恩返しすると心に誓った。
  • 熱心に聞き入っていた児童たちは、あとから先生を質問攻めに…!
  • 児童たちからリコーダー演奏のプレゼントは地元広島出身の谷原の胸にもしみる“ふるさと”だ
  • 授業のあと、ひとりひとりと握手をかわして児童たちを見送った

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