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日本プロゴルフ選手権大会 日清カップヌードル杯 2011

79代目のチャンピオンは河井博大

言葉にならない。声にならない。何か言おうとするたびに、喉の奥から込み上げてくる。「もう、何も考えられない」。39歳の男泣き。日焼けですっかり荒れた頬。幾筋も、涙が伝う。プロ16年目。「長かった・・・」とつぶやいて、あとが涙で続かずに、「すみません」と、うつむく。「今日はただ、勝つんだって」と言いかけて、また涙を拭う。

くじけそうになったこともある。「もう、やめてしまおう」と、思ったことも。だけど「やっぱりゴルフが好きで好きで、たまらなかった」。その一心で、夢を追い続けた16年。「いま思えばこの瞬間を目標に頑張って来た。やめないで良かった。本当に本当に良かった」と一気に吐き出し、また嗚咽した。

2011年のプロ日本一決定戦。河井博大が79代目のチャンピオンに輝いた。最終日は韓国の新鋭、裵相文(ベ サンムン)との一騎打ち。タイのまま、もつれ込んだバックナインは13番でバーディを奪い、単独首位に躍り出るや「勝ちたいという欲が出て。逆に苦しくなった」という。

終盤、度重なる窮地を救ってくれたのは、他でもないパッティング。15番で7メートルものパーパットをしのいで、食らいつく。本人が昔から、もっとも苦手と自覚する分野はしかし、「エッジが噛んでいるほうが、しっかり打てる」と、逆に強みに。グリーンの外からでもこれでもか、とパターを握り、17番は手前のカラーから約9メートルを沈めて土壇場で再度、突き放した。

1打差で迎えた18番も、外から確実にパターで寄せた。河井より、少し遠い場所からウェッジで、微妙な距離を残した裵(べ)にプレッシャーを与え、相手のボギーを誘った。ウィニングパットは本人の歩幅にして「カップまで約1歩」。しっかりと、流し込んだらもう顔が上げられない。泣いていた。泣きながら師匠の胸に、なだれ込んだ。

出身の広島県は、瀬戸内高校のひとつ先輩に再会したのはデビュー年の97年。卒業してから約6年で、その差は年齢以上に開いていた。当時すでにツアー通算2勝(現在10勝)、翌年の98年には日本オープンを制した田中秀道と、「自分とでは世界が違う」と遠慮がちに、それでも「秀道さんと一緒にいたい」と勇気を出して、その懐に飛び込んだ。

「秀道さんは、僕の打ち方から考え方から、ゴルフスタイルを全否定」。所属先の兵庫県から田中がいる名古屋に居を移し、本格的な取り組みが始まった。

当時の河井といえば、「私生活はだらしなく、思うがまま」とは本人談。しかしことゴルフとなると、必要以上に神経質になる。
「それでは潜在能力が発揮出来ない。このままでは絶対勝てない」と、厳しく言われた。
「歩きながら打て、と。歩いて行って、1ミリも立ち止まることなくなんとなくアドレスをして、無の状態で振っていけ、と」。
試合中にもそれをやれ、と言われて「相当勇気が要った」という。

2000年に初シード入りを果たしたものの、復帰と転落を2度も味わい、2008年にはファイナルQTにも失敗。出場権さえ失った。
田中に「もうゴルフはやめます」と言い残したまま、しばらく行方をくらましたのもその年の暮れだった。
「稼ぎもなくて、お先真っ暗。僕はもうダメだ、と。違う仕事をしたほうがいい、と。悲劇のヒロインになっていた」。そんな生き地獄から呼び戻してくれたのは、留守番電話に残された師匠の伝言。
「俺のために、もう一度ゴルフをしてくれ」と、田中が悲痛な声を上げていた。

当時を思い返すにつけて、「秀道さんには、本当に感謝しています」と、ますます涙が込み上げる。この日最終日はスタート前に、真剣な顔をして田中は言った。「お前なんか絶対に勝てるわけがないから」と、二度も三度も繰り返して自らもスタートしていったのは、弟子の緊張を和らげるため。そのためならば、嫌われ役もいとわない。深い思いやりを思って、また泣けた。
「秀道さんを信じてきて、本当に良かった」と、涙にむせんだ。

18番のグリーンサイドで力一杯に抱きしめられた。河井だけに聞こえる声で、田中は言った。「ゴルフを続けていて良かったな」。その言葉を聞いた瞬間、ありったけの涙が堰を切った。

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