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手嶋多一が小学生に夢を語る
そんな彼が小学生に、夢を語る・・・?!
「子供たちが、少しでもゴルフに興味を持ってもらえるならば」と、引き受けた。しかし、いざ当日の2月22日が近づくにつれて、本人も後悔ばかりしていた。「俺には人様に語れるようなものは何もない」。
2009年からスタートした“ゴルフ伝道の旅”。選手たちがリレー方式で全国各地の小学校を回って、ゴルフの楽しさを伝えて歩く試みが今年もスタート。21日の武藤俊憲に続いて、すぐ翌日には広島県の大竹市立大竹小学校を担当することになった手嶋だったが、午後からの「夢を持とう」の講演会は45分の持ち時間も「悪いけど、俺はきっと20分で話が尽きてしまうから」と、まだやってもみないうちからそんな弱気な詫びを入れて、選手会のスタッフを不安にさせた。「俺には45分も語れることなど、何もないもの」と、頑として言い張ったがそんなわけがない。
プロ19年目。今年のシード70人の中では、最長の16年連続でシード権を保持。福岡は九州の怪童と呼ばれたジュニア時代。99年にツアー初優勝を挙げ、2001年には日本オープン制覇。通算6勝の輝かしいゴルフ人生は、多少はしょったとしても、45分ではとうてい足りない。
結局、授業時間をほとんど目一杯使ってまでも、手嶋が伝えたかったことはしかし、そんな成功例ではなかった。あとから本人も、「やっぱり、もう少し前向きな話をしたほうが良かったかも」と後悔したほど、手嶋が講演会の中で強調して話をしたのは挫折体験ばかりだった。
「文武両道」を目指し、1年“浪人”してまで、アメリカの名門・ジョージア工科大学に入ったはいいが、ゴルフの試合で対戦相手に握手を拒否された屈辱の思い出。海外での孤独な日々。
「舐めてかかった」という最初のプロテストでの落選。アメリカで揉まれてきたとの自信もあっけなく打ち砕かれた。追い打ちをかけるように、練習のしすぎで肩を痛めた。クラブさえ振れなかったときのつらい記憶・・・。
チョークを握りながら、しきりにつぶやく独り言を、マイクが拾う。
「ほんとうに、こんな話しでいいのかな」。
「大丈夫? みんなついて来られてる?」。
「・・・俺の字、汚いよね、読めるかな」。
しきりに子供たちの顔色をうかがいながらも、苦い経験ばかりをあえて語ろうとしたのは、いつもの照れや謙遜のせいだけではない。度重なる苦難も諦めさえしなければ、みんなも自分のように、いつか必ず夢はかなうことを分かって欲しかったから。40歳を超えてなお、第一戦に立ち続けることも可能なことを、知って欲しかったから。
だけど講演会が終わってからも、やっぱり後悔ばかりを口にした。「もっと夢のある話をしたほうが、子供たちには良かったかもしれないね。あんなんじゃうまく伝わらない」と、しきりに反省を繰り返していたものだが、本当にそうだろうか。
「あまり興味を持って聞いてもらえなかったかもしれない」と、本人はちょっぴり落ち込んでいたようだが、それはかえって子供たちに失礼かもしれない。
“手嶋先生”の板書をノートに熱心に書き写す子。大学時代にウッズと戦ったことがあると打ち明けたとき、確かに子供たちの目が輝いた。これまで43年の人生を、一気に語り終えたあとには子供たちから次々と質問の手があがった。ちゃんと話を最後まで聞いていなければ、出て来るはずのない、内容の濃いクエスチョンばかりだった。
あとで各教室で開いたサイン会では、講演会に参加した5年生の113人全員にペンを走らせながら、手嶋のほうから聞いてみた。
「みんなの夢は何?」。と、たちまち出てくる出てくる。バラエティーに富んだ夢のオンパレード。「みんなすごいね、もうちゃんとそんな立派な夢があるんだね」。
プロゴルファーになりたいという子も何人もいて、それらに耳を傾けるにつけて、この子たちにはこの先どんな人生が待ってるんだろうと、思わずにはいられなかった。夢を叶えようとチャレンジする課程で、一度も挫折感を味合わない人などいない。そのときに、折れない心をどうか今のうちに養っていて欲しい。手嶋が言いたかったのは、そういうことだった。
「でも難しいねぇ、人に何かを伝えるっていうことは」と、しみじみとつぶやいた。「俺は特にそういうことが、苦手だから」と浮かべた自嘲の笑みには、何はともあれ大役は済ませたという安堵もかすかに漂っていた。