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藤田寛之が、賞金王の祝賀会
本人も「緊張・・・。バリバリしています」と、素直に認めた。「ティショットを打つときでも、こんなに緊張しないくらい」。
これを機会に新調したかったタキシード。だが数日前に、恒例のハワイ合宿から帰ったばかり。買いに行く暇もなく、今回は貸衣装で済ますしかなかった晴れ姿も落ち着きなく肩をすぼめて、「こればっかりは、新人選手の気分です」。
昨年、43歳にして初の賞金王に輝いた。この日2月13日は、都内のザ・キャピタルホテル 東急で開かれた祝賀会。プロデビューは93年、初優勝は97年。当時の初々しい姿が壇上のモニターに、大写しになるにつけても、当時の藤田を知る誰もが口を揃えた。
「これほどの選手になるとは思わなかった」。師匠の芹澤信雄も宮本も、地元福岡からビデオレターで、お祝いのメッセージを寄せたご両親さえも、涙ながらに「あの子が賞金王になるとは夢にも思わなかった」。
大阪からお祝いに駆けつけた谷口徹。02年と07年の賞金王は「当時は勝ち星も、僕のほうがずっと上だった」。そのころは、優越感すらあったが一つ下の後輩は、40歳を境にあっという間に追い上げてきて、今や「藤田くんが、僕の終身シードを邪魔してる」と、あのいつも強気の男ですら、今の藤田には驚異を感じずにはいられない。
“チーム芹澤”の一員で、弟分の上井邦浩も壇上で、お祝いのメッセージを伝えるはずが、「憧れているだけではいけない。頑張って、追いついて、いずれは藤田さんを追い抜きたい」。20年もの月日をかけて、今やベテラン若手を問わず、誰もが“打倒・藤田”をうたい、常に追われる立場にまで上り詰めた。
近頃は、誰も名前で呼んでくれなくなった。「どこへ行っても賞金王、賞金王、と」。その言葉を聞くにつけても、「やっぱり、ものすごい勲章をいただいたんだ」と、身の引き締まる思いがする。
この日の祝賀パーティも、400人もの方々がお祝いに駆けつけ、人々であふれんばかりの宴会場でも極度の緊張と、恐縮しきりで頭を下げっぱなしで歩いた。
「ここにいらっしゃるすべての方々のお力がなかったら、僕はここにはいませんでした」と、しみじみと藤田は言った。
「みなさまのおかげで藤田寛之は、いまが満開です。満開の花が、咲き誇っています・・・!!」。
そしてその種を最初に蒔いてくれたのは、やっぱりこの人。
「芹澤さんにいただいた種」。
95年に弟子入りを志願してからというもの師匠からもらった種に、コツコツと水をやり、大切に大切に育ててきた。
その種が、20年という時をかけていま、満開の花を咲かせて「芹澤さんの背中を一生懸命に追いかけてきたことは、間違っていなかったと思える」。
今年4月には、自身2度目のマスターズにも挑戦する。故郷で吉報を待つ父親の寛実さんは、「おまえ、今年は16位内に入りたいということを、新聞やらで書いてあったけれども」と、そこは泣き笑いの顔になり、「なかなかそれは難しいだろうから、せめて予選くらいは通ってください」。
16位内に入れば、来年もまたマスターズに行ける。自身3度目の出場権獲りは、師匠の厳命でもある。ここ数年は、テレビ解説として毎年、オーガスタに通っている芹澤が、震えながらラウンドリポートしたのは2009年。片山晋呉が4位に入った年だ。あのときはさすがに、あと一歩で優勝にも届きそうというような片山の勇姿を間近にして芹澤も、震撼せずにはいられなかった。
「今年はぜひ藤田くんのプレーに震えながら、手に汗握りながら、リポートをしたい」。
改めて、師匠に強く背中を押されて賞金王が旅立つ。18日月曜日に日本を発つ。それまでに米ツアー3戦をこなして、そのままマスターズウィークに突入する。
確かにお父さんの言うように、師匠の言うことは無謀な夢かもしれない。
それは本人も承知の上で、「体の続く限り頑張って、その先にもし、奇跡という名のゴールにたどり着けたら、そのときはまた、みなさまの前でご報告をしたいと思います」。
賞金王から再びの吉報を待ちたい。