09年から選手会の主導で始まった『ゴルフ伝道の旅』。プロたちが交代で、全国各地の学校にゴルフの楽しさ、面白さを伝えて歩く貢献活動は、この日で55校目。
2020年の第一弾は不屈の40歳だ。竹谷佳孝が、子どもたちに夢と希望を届けに行った。
2月6日に向かったのは笠間市にある友部特別支援学校。
ゴルフの初歩的用具の「スナッグゴルフ」を寄贈。
さっそく道具を使って元気いっぱいの子どもたちと触れ合った。
お昼時間に美味しい給食を挟めば、すっかり意気投合。午後から「夢を持とう」と題した講演会では自らの人生をたどり、中、高校生85人に熱弁をふるった。
「人より努力してきた、という思いはある」と、我が人生を切り出した。
ケガと挫折の連続だった。
「最初の試練は中2のときでした」。
地元山口県下の野球チームで、ベストナインに選ばれながら、膝の故障でドクターストップ。「もう野球は出来ません。先生に、言われましたが諦めきれなかった」と、執念のリハビリで復帰。
宇部鴻城(こうじょう)高校時代も野球部で活躍を続けたが、患部の膝をかばい続けた影響で、今度はついに歩行も困難なほどの腰痛に。練習中に気を失い、救急車で運ばれた。手にシビれも出て、2か月の入院を余儀なくされても「スポーツは、諦めきれなかった」と、次に目指したのがゴルフ道だった。
九州のゴルフ専門学校でいちから学び、07年にプロデビューにこぎつけた。14年の「日本ゴルフツアー選手権 森ビルカップ Shishido Hills」でついに、ツアー初優勝を達成した。
「勝つまでの8年間。その間もやはりケガばかりで、成績が思うように出ない時期が続いた。それでもコツコツやり続けて気持ちをとぎらせなかったのは負けたくない、もっとうまくなりたいという思い。勝てたのも、まぐれだったかもしれない。でも夢をあきらめたことはなかった」。
下積み時代の07年、27歳で結婚。3児にも恵まれ「家族のためにも頑張ろうと、責任感が生まれたのも良かった」と、絆の大切さにも触れた。
初V後も賞金シードを確保できたのは翌15年と16年の2年だけ。17、18年は取りこぼしてついに昨年は、初V時に得た5年シードの最終年度を迎えて、追い込まれながらも土壇場で、ボーダーラインの賞金ランク65位に飛び込み復帰に成功。
「僕ももう若くない。野球選手でも、長くて40歳前後。引退も考える年代ですが、僕の目標は今も常に優勝すること。賞金王だって、目指したい」と、年齢から来る限界にも屈しない。
「夢っていうと、ちょっと遠い感じがするけど、『もしかしてこれならできるかな』ということをまず目標に取り組んでいけば、それが達成できたとき、また次の目標が見えてきたりします。素敵な出会いも待っていたり、それはゴルフに限らずすべてに関して言えること。みなさんもこれからの人生で、目標や夢を見つけてそれに向かって頑張っていかれることを、心から祈っています」。
マイクを置くと、子どもたちの拍手喝さいに包まれた。
苦難の人生にも屈せず前を向いて歩き続ける大人の言葉には、説得力があった。