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髙橋竜彦が母校にスナッグゴルフのコーチングセットを寄贈(3月9日)

スナッグゴルフコーチングセットの寄贈式で、20年ぶりに母校・大野城市立大野北小学校の門をくぐった髙橋は、お昼時間に高原昭彦先生の5年1組で給食をごちそうになった。
準備ができた、との連絡を受けて階段を上がりながら、鼻をひくつかす。

「あ・・・この匂い。給食の匂い。なつかしい!」。

体育館も、運動場も、校舎の中もほとんど当時のまま。
ふいに、思い出がよみがえってきた。

教室に着くと、歓迎のメッセージを貼った黒板を背に、ずらりと並んだ子供たちに出迎えられた。
子供たちから歌のプレゼントに、うっかり涙がこぼれそうになった。

照れ隠しに視線を外すと、3階の教室の窓から、かつて住んでいた家が見えた。
体育館の3軒隣。朝、チャイムが鳴ってから走っても間に合うほどの距離は、ランドセルがいつまでもキレイなままなのが恥ずかしくて、わざと汚れをつけたほどだ。

父・忠吉さんの影響でクラブを握ったのもこの頃。
しかし、友達に「ゴルフなんておじさんくさい」と、からかわれてショックを受けた。
「当時、ゴルフをする子供なんてほとんどいなかったから」。
家の裏庭で、こっそり練習を積んだことを今でも覚えている。

献立の野菜カレーを一緒に食べながら聞く、先輩の思い出話に子供たちの目が輝く。

プロゴルファーになって嬉しかったこと、つらかったこと。
いろんなエピソードを交えて子供たちに語りかけた。

たとえば、日本ツアーの出場権さえなかった時代、アジアンツアーを転戦していたころのこと。
立ち寄ったインドで目の当たりにした貧富の差。

「みなさんと、同じくらいの年齢の子たちが学校にも行けず道端で花を売ったりしていた。それを見たとき僕は、学校に行かせてくれた父や母に感謝しました。・・・みんなも、ありがとうって言わなくちゃね」。

または、専属キャディのゲーリーさんの話。
「僕は英語が話せない。オーストラリア出身のゲーリーは、日本語が話せない」。
それなのにゴルフのときは、不思議と会話が成り立つ。
「ゴルフのおかげで、国を超えた大親友ができたんです」。

そして、いまの自身の夢。
「再来週、シンガポールの試合に出ます。そのあと続けて、全英オープンという試合の予選会に出場します。そこで優勝することが、いまもっとも近い目標です」と、話した。

4時限目の講義の最後に、今度は子供たちの夢も発表してもらった。
15歳になったときの自分、20歳の自分。そして、夢をかなえるためにいま何をしたらいいか。
順番に話してもらったのだが、みんなが想像以上にしっかりと将来のビジョンを持っていることに驚いた。

中でも嬉しかったのは、「僕は、プロゴルファーになって、たくさんお金を稼ぐ」と、語ってくれた子がいたことだ。
「それだけでも、来た甲斐があった」と、髙橋は思う。
さらに、5、6時限目の授業で行われたスナッグゴルフの講習会は、約2時間のレッスンが短く感じられたほどだった。
「みんな、思った以上に楽しんでくれた。これからも、ゴルフがしたいと言ってくれたから・・・。今年も、また優勝して子供たちに会いに来たくなった」と、髙橋は言った。

朝、20年ぶりに母校の門をくぐったとき、「これをきっかけに、子供たちに夢を持ってもらえたら」と、考えていた。
確かに、城戸克弥・校長先生もこう言ってくださった。
「自分たちの先輩にはこんなすごい人がいた。その人は4年生のとき、文集に書いた夢を実際に叶えた。そして、今日はその人と出会って話ができた。子供たちには、強烈なインパクトだったと思います。僕たちも、頑張ればプロのようにできるはずだ、と」。

しかし、楽しかった1日があっという間に過ぎ去って、子供たちにさようならの手を振っているときに髙橋は気がついたのだ。
「夢と勇気を与えられたのは、実は僕のほうだった」。
ものすごく、満ち足りた思いになって母校をあとにした。

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