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選手会長・倉本は「杉原さんの言葉をいかに伝えていくかが我々の使命」
杉原氏が最年長でその一角を担った永久シード選手は、ほか6人を代表して青木功が最初に弔辞を読むと、生前からご遺族ともども親交が深かったPGAの松井功相談役とJGTO会長の小泉直、また杉原氏が活動の拠点にしていた新宝塚カントリークラブと阿山カンツリー倶楽部の綿引秀憲・理事長代行が、そして最後にJGTPC会長の倉本昌弘と続いた。
昨年末で、会長を勇退した松井氏は、現職時代に杉原氏に励まされたエピソードを語り、「杉原さんのおかげで6年間の会長職を全うできた」と、弔辞の中で感謝を寄せた。
小泉は杉原氏がなしとげた数々の偉業をたたえるとともに、2008年にはマンシングウェアオープンKSBカップのプロアマ戦で回った際に、杉原氏が7番パー3でホールインワンを達成した際のエピソードを明かした。
「我々も大興奮で手を叩き、肩をたたき合って喜びを分かち合いました。もしかしたら杉原さんのホールインワンは、それが最後だったかもしれない。そんな場面に立ち会えて本当に光栄でした」と改めて、在りし日の姿に思いを馳せた。
綿引氏が弔辞の中で語られた杉原氏の腰の低さ、またコースで黙々とゴミを拾って歩く様子は誰の記憶の中にも鮮やかに残っているシーンのひとつである。
倉本は「よく挨拶せえよ、と叱られました」と、苦笑を交えて生前を振り返った。
「してますよ、と言うと、相手に聞こえないのは挨拶したことにならない、と。だから僕は今でも若い子に自分から挨拶するようにしている。そうすれば、若い人もおはようっていわざるをえないでしょう。杉原さんの、ユーモアを交えた教育は素晴らしかった」。
80年に、まだアマチュアだった倉本が中四国オープンで優勝した際には「倉本みたいな人間がプロになるべき。なんでプロテストを受けささないといけないのか」と、当時の役員に働きかけをしてくれたのも、杉原氏だった。
1992年から、倉本が8期つとめた選手会長時代。99年には亡き島田幸作氏とともに、JGTO発足に奔走した倉本を、「お前の好きなようにやれ」と、後押ししてくれた一人でもあった。
その中でとうとうプロテストを受けなくてもツアーに出られる制度が出来て、石川遼というスターが誕生した。「その先駆者的存在が杉原さんだった」と、感謝を交えて振り返る。
84年の発足時に、初代会長についた杉原氏。倉本は今年、13年ぶりの会長職に復帰した。このお別れ会の開催が、その最初の大きな任となった。会には696人が参列し、その後行われた一般献花もファン328人が訪れた。
シーズンオフの多忙期にもかかわらず、多くのプロゴルファーたちも駆けつけた。
「滞りなく会を終了することが出来た。こんなにたくさんのみなさんが、杉原さんにお別れを言いに来てくださった。本当にやってよかった」と、ひとつ大役を終えても、息つく間もなく倉本は前を向いた。
「これからは、杉原さんの言葉を後にいかに伝えていくかが我々の使命。良い報告が出来るようにしたい」と“復帰元年”の思いを新たにしていた。