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三菱ダイヤモンドカップゴルフ 2009
プロ17年目の兼本貴司が涙のツアー初優勝
だからもし自分にそのときが来ても、絶対に泣くまいと思っていたが、2.5メートルのウィニングパットを決めた途端に、たちまちもう涙腺がゆるんでいた。
これまでの17年間が、走馬燈のようによみがえる。
「苦しいこと、辛かったことが、フラッシュバックするんです。苦労や、努力の積み重ねとかが浮かぶんです。泣けました」。
初めて味わうツアー初優勝の瞬間は、思いのほか心に染みた。
ギャラリーの大声援にも「じ〜んと来た」。喜びと感謝のあまり、グリーンサイドで陶然と立ち尽くしていると、背後から冷たいものが降り注いだ。
仲間から、ビールかけの手荒い祝福に、また泣いた。
この日は、2打差の2位タイからスタート。
同組には、シード権を失った2006年から教えを請う中嶋常幸。
正直言って、かたわらで首位を走るジョーンズのことは、怖くはなかった。
「コースに生えている木と同じように、ジョーンズのプレーも風景の一部と同じような感覚で見られた」からだ。
それよりも、目標にしていたのは初めから中嶋だった。
2001年のアコムインターナショナル以来、人生2度目の最終日最終組も、最後まで中嶋がお手本だった。
途中、7番でダブルボギーを打って中嶋は優勝争いから脱落したが、それでもまだ諦めない姿勢を54歳の背中で学んだ。
前組のプレーを待つほんの少しの間も、ゴルフやゲームの研究に当てる様子に一流の生き様を垣間見て、その場でさっそく真似をしてみたりした。
一度はジョーンズに突き放されながら、難しい大洗の上がりホールでしぶとく食い下がり、伸び悩むリーダーをとらえ、プレーオフに進めたのも「中嶋さんのおかげ」と、感謝する。
再び戦いの18番ホールに向かう直前、「お前なら出来る。頑張って来い」と送り出されて気合いが入った。
先の2ホールとも第2打を左のラフに入れた。
アプローチが苦手という兼本には厳しい試練だったがみごとに切り抜け3ホール目は、ティショットをまたしてもフェアウェイ左のバンカーに打ち込んだが風向きの変化に気づき、今度は7番アイアンで、まっすぐにピンを狙っていった。
手前にぴたりとつけて競り勝った。
「中嶋さんがいたから勝てたと思う。すごくいろいろとプラスになった」。
涙とともに、感謝の思いが止まらない。
そして、最後は何より父親の存在だ。
今季2戦目のつるやオープンに、地元・広島県の因島からはるばる応援に駆けつけた弘次(ひろじ)さんが、ぼそりと言ったのだ。
「お前もそろそろ1勝してくれないと、困るんじゃが」。
奇しくも中嶋と同じ10月20日が誕生日の弘次さんは、1937年生まれの71歳。
脳梗塞を煩い、今も薬が手放せない。
しかし、息子の前ではつらい病状もひた隠し、気丈に振る舞う父。
そんな弘次さんが、ふと漏らした本音を聞き流すことは出来なかった。
「父親が死ぬ前に1勝したかったので、本当に良かった。オヤジのために、やっと勝てた」。
そう言って、慌ててタオルで顔を拭う。
「これ以上、オヤジのことを言うと泣いちゃうので……」。
大きな口で無理矢理に、いつもの笑顔を作ってみせた。