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アジアパシフィックオープンゴルフチャンピオンシップ パナソニックオープン 2013
今年のアジア太平洋地域のNO.1は川村昌弘【インタビュー動画】
首位と2打差の2位タイから出た最終日は4番からの連続ボギーで一瞬、よぎった嫌な予感。キャディの小岸秀行さんと苦笑いで顔を見合わす。「こんなこと確か前にもありましたよね?」。トラウマに引きずられずに済んだのは、次の6番で「1.5㍍の凄い下りのスライスが入った」3連続ボギーの危機を逃れた。希望をつないだ。そしていよいよ意識をしたのはかねてから本人も言っていたように、上がりの3ホール。15番で右手前から2.5㍍を沈めたことで、普段は柔和な表情もやにわに戦闘モードになった。
ひとつ後ろの最終組のS・J・パクと2打差で迎えた17番パー3は、20度のUIを握って「ピンの右でいいよね」と、言ったそばから「ピンしか見てないのが、僕の性格」。クラブを短めに持ち、「右からドローで回してくるのが僕の決め球、勝負球」。ピン3㍍につけた。急な下りのスライスを読み切ってついに1打差と迫った。最後の18番パー5は、もはや「風とかもう関係なくて。最後はとにかく思い切り振り抜こう」とさらに強気でフェアウェイのど真ん中をとらえた。ピンまで250㍎の2打目でもう一度、20度のUIを短く持って、これぞまさに勝負の決め球となった。
ピン手前8㍍をとらえた。イーグルトライは外しても、楽々バーディの直後に、満員の巨大なギャラリースタンドがざわめく。後ろのS・J・パクが、17番で連続ボギーを叩いて通算8アンダー。その瞬間に、川村が単独首位に。「プレーオフに、なると思った」。でも、練習グリーン横で素振りだけを繰り返したのは、こう見えて「凄く頑固な性格だから」。たとえバック9でインターバルを挟んでも、競技中断後の再開でも「遊びの球は打たない。気持ちの入らない球は絶対に打たない」との決め事は、こんな一大事でさえ徹底している。
「接待ゴルフ」にいそしむ父親の昌之さんのついて、初めてクラブを握ったのは5歳のとき。独学で身につけたスイングは、「昔はもっとオーバースイングで、クロスに入るのがひどかった」そのままでは通用しないと言う大人もいたが、反発しか感じなかった。「これで良いスコアが出るのに何で直さなきゃ、ならないのか」。
たとえそれが父親であっても「教えてもらうのは好きじゃない」。というより「スイングを作るというのは今までもやったことがない」。形よりも、球を自在に操ることにこだわる。五感を駆使して球筋を打ち分けることに、無上の喜びを感じる。「自分では勝手にショットメーカーだと思っている」。平成生まれの業師と呼ばれるゆえんである。
自宅近くのパブリックコースに自ら予約の電話を入れて、見知らぬ大人に混ざって回った小、中学時代。「生意気な子どもだったと思う」。バーディには顔色ひとつ変えないくせに、ボギーを打てばふて腐れる。徹底的にマナーを学んだ今では「あのとき一緒に回った方々に謝りたい」と、今さらながら悔やむほど。当時、全盛期のウッズにも興味はなかった。「誰かのゴルフを見るより自分でするのが好きなので。憧れの選手はいないと言い続けていた」。ある意味、可愛くない・・・。「我ながら感じ悪い」と、苦笑した。
難しいコースほど燃える。ここ茨木カンツリー倶楽部も開催前に、地元出身の山下和宏と下見に来た際にも「ドローもフェードも要求される。めっちゃ好きなコースですわ」と“初対面”で惚れ込んだ。2011年に、アメリカの設計家のリース・ジョーンズ氏の手でワングリーンに改造されたコースは夕暮れになると、洗練されたレイアウトがいっそう美しい陰影を織りなして、小岸さんと2人で「キレイやな〜」至福の瞬間に毎日、見惚れた。
ラウンド中は、小岸さんの人生相談を聞きながら歩く。
「昨日、嫁とケンカしてん。あぁ…まーくん、どないしよう?」頭を抱える小岸さんにしみじみと言う。「結婚て、そんなもんじゃないですか?」って、あなた一体いくつやねんと、ツッコミたくなる20歳
この日の勝負服もごくシンプルに「何者にも染まらない上下黒」。オフは、若くして観光親善大使をつとめる地元三重県の四日市で親友と、健康ランドでリフレッシュ。優勝副賞は400万円相当のパナソニック製品一式の中でもとりわけ高級マッサージチェアに「あれはかなり嬉しい」と目を輝かす箇所も、なんだか今どきの若者らしくない?!
福井工業大付属福井高校を出てすぐに、プロの道へ。「どうせなら、早く厳しいところでやりたい」と早々にQT受験。「大学に4年間行ったつもりで頑張ってみよう」と気長にいくつもりが昨年にいきなり初シード入りを果たした高卒ルーキーは、2年目にして初優勝も達成してしまった。
「出来すぎです」と、声をうわずらせたお父さん。泣き崩れたお母さんの那緒美さん。5月に練習のやりすぎで、左親指付け根をひどく痛めたときには深刻な息子の様子に声をかけるのも憚られた。
止まらない母の涙も息子の優勝スピーチに、たちまち笑顔に変わった。選手みんなの気持ちを立派に代弁した自慢の一人息子だ。
「素晴らしいこの大会を、またぜひ開催して頂きたいと思います!」。
緊張で、声をうわずらせながらも一番大事なフレーズだけは、忘れなかった。関係者にも「余裕があったらぜひに」とこっそり頼まれていたその一文。「僕だけの一存ではそんな偉そうなことはとても言えなかった」と恐縮しきりでも、若きチャンピオンにとっても心からのお願いであることには間違いない。