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手嶋多一の「全英への道」
うち、初メジャーの01年から2年連続の2度は、実は辛い思い出しかない。
海べりに張り付くリンクスコースはたびたび競技を止めるくらいの強風に加えて、あちこちに息をひそめるポットバンカーは、地をえぐるように深い。
膝丈をこえる草地につかまれば、ひとたまりもない。「これはかなわん」と、悔しさだけを残してあえなく予選落ちを喫した。
リベンジを期して、07年にはQスクールから欧州ツアーに参戦。だが、この時は「メンタルをやられた」。
新婚の妻を伴い旅に出たのはいいが、「毎日、朝から雨合羽を来て会場に行く。晴れている日がほとんどない。滅入るばかり」と、予選落ちの嵐にも、次の試合までどこにも行けず、普段はめったに練習しない感覚派も「会場の練習場にいるしかなかった」。
球を打ちすぎたことで、今度は思考の迷路にはまり、余計に調子を崩した。悪循環は愛妻の負担にもなり、やむなくシーズンの終了を待たずに帰国。
直後の「カシオワールドオープン」で、国内通算6勝目を挙げたときには甲斐もあったと思ったが「とにかく、きつかった」と、顔がゆがむ記憶ばかりだ。
でも、15年に所属先のミズノが主催する「ミズノオープン」で、通算8勝目を飾ってつかんだ3枚目の”全英切符”は格別だった。
同大会でのホストVは1986年に、当時は同社の看板プロだった中嶋常幸が達成して以来、26年ぶりの快挙。
優勝の瞬間は、本人ばかりか同社の水野明人・社長までもが胴上げで担がれるなどお祝いムードに沸いた。
同社の所属プロが同大会の予選会を経て、「全英オープン」に出場するのも13年ぶりと、久しぶりだった。しかも、同社契約の富村真治(当時24歳)も権利のある大会3位に入って共に権利を勝ち取り、全社あげての余韻も冷めやらぬままに渡英。
同年の開催コースが5年に1度の「セントアンドリュース」というのもまた心浮き立った。
「初めてのセントアンドリュースは一見、他のリンクスより攻略しやすく見えましたが、やっぱり風が凄くて。ちゃんと打ってもバンカーに行ったりまた予選落ち」と、初挑戦から3度目の正直とはならなかったが、当時46歳。「おそらく自分の最後のメジャー」と、全力でぶつかり悔いはない。
水野社長と現地で改めて祝杯を交わし、元世界1位でミズノのクラブを使うルーク・ドナルドと交流の時間を持ったり、場内外で満喫。
苦しかった若いころの分だけ反動もあり、”聖地”での思い出は語りつくせない。
17年には、日本で愉快な再会も果たした。その年、レギュラーツアーの空き週に行われた日本初開催の米シニアツアー「JAL選手権」で、テレビのラウンドリポーターを引き受けた手嶋が追いかけたのが、ジョン・デーリーだった。
ロープ際でマイクを構えていると、なんと彼が親し気に手を振るではないか。
「久しぶりだな! オマエはまだやってるのか?」と、笑顔で話しかけられ驚いた。
「全英オープン」の初日にデーリーと回ったのはロイヤルリザムセントアンズで行われた初出場の01年。
「罠が多くて、刻むホールが多いコースなのですが、彼は全部ドライバーを持ってむちゃくちゃ飛ばした」。
歴代覇者(95年、セントアンドリュース)の”怪童ぶり”に、度肝を抜いた記憶は、手嶋にとっては鮮烈でも、十数年も前の話だ。
「ほんとに僕のことなんか覚えていたのか…。怪しいですけど『まだレギュラーで頑張ってるよ』と返事したことを、覚えています」。
当時の手嶋には、最長の22年連続シード権の継続という自負もあったが、その翌18年についに陥落。昨19年も、復活には失敗した。
今季は生涯獲得賞金25位内の資格で、返上を期すつもりだった。
しかし、今年はコロナ禍でツアーも休止状態。
物心ついたころからミズノのクラブを握って育った手嶋にはV経験もある主催試合の中止もなおさら無念。
「この年(51歳)にもなりますと1年1年が惜しいのもありますけど、こればっかりは仕方ない」と、地元福岡で再開の時を待つ。
「もう一度勝って全英に…というのはきついかもしれない。でも、またミズノさんにも喜んでいただきたいし、このまま終わりたくはない。試合が始まったらシード権の奪回を目指して頑張るつもりです」。
この災禍を乗り越えたらまずは復活への道を、全力で探していこうと決めている。
※今週開催予定だった「ミズノオープン」の副タイトルは「全英への道」。世界最古のメジャー戦「全英オープン」の出場権をかけた今大会も、今年は中止に。試合のない週も、大会ゆかりの選手たちが気持ちだけでも聖地への道を歩みます。