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オリンピアンの声を聞く/ 片山晋呉のリオデジャネイロ
五輪でゴルフ競技が行われたのは、1900年のパリ大会。続けて、1904年のセントルイスで2度開催。
その後、長く種目から外されたが2016年のリオ大会で、112年ぶりに復活した。
4年前に代表をつとめた池田勇太と片山晋呉が、日本の男子ゴルフにおける初のオリンピアンとなった。
「あれだけの伝説を作ってこられた青木さん、ジャンボさん、中嶋さんも経験されていない。まだ勇太と僕の2人だけ」とは、片山だ。「たまたま僕らがその最初の人間になれたことは、今でも誇り」と話す。
当時、代表権がおりてきたときには正直、片山にも出場への迷いがあった。
当年、トップランカーの多くが出場を辞退したのは他メジャーとの日程調整に加えて、当地で流行していた感染症(ジカ熱)への懸念があったからだ。
惑う片山の逡巡を吹き飛ばしたのは、97年に癌で亡くした父・太平さん(享年53歳)の遺品。
当時、陸上選手として活躍していた太平さんは、1964年の東京で、聖火ランナーをつとめた。その委嘱状を、実家で偶然見つけた片山は、「不思議な縁を感じた。父からのゴーサインと思った」と、出場を決意。
国内男子ゴルフに、43歳の初オリンピアンが誕生した。
予選落ちのない72ホールのストロークプレーで60人中54位と、結果には恵まれなかった。
しかし「ゴルフが復活した最初の年に代表をつとめることができた。そのことには、ひとことでは言い表せないくらいの大きな感動があった」と、片山はいう。
とりわけ、開会式の入場行進は格別だった。
「今までの僕の人生の中でも、ちょっとないくらいにシビれましたね」。
他競技のトップアスリートと肩を並べて、旗を振りながら歩くと、ベテランの胸にも日の丸の重みがジワジワ来た。
その様子は周囲にも分かるほどだったそうで、倉本昌弘・強化委員長も「地に足がついていなかったように見えた。片山選手があんなに緊張して見えたのは初めて」と、試合後の総括コメントに残している。
「日本代表として戦った経験は過去にもたくさんありましたが、あそこまでのはなかった。開幕日はスタートして、2ホールくらいは足がフワフワして、浮き足立っていたことを覚えています」(片山)。
5度の賞金王さえまぬかれなかった代表の重圧。
初日の出遅れを取り戻せないまま終わったのは無念だったが「それも参加した者にしか味わえないこと。出場できて、本当によかった。素晴らしい経験ができた、と今でも思っています」と、話す。
帰路の乗り継ぎで、うっかり機内に置き忘れて血まなこで捜索した日の丸エンブレムのジャケット。
「今も宝物です」。無事、手元に戻った当時の代表ユニフォームは大事にクローゼットにしまってある。
当時、4年後の検討課題について話し合ったときに、片山も提起したことだが「せっかくみな国を代表して出ているのだから、ゲーム方式も団体戦にしたほうが盛り上がるのではないか」。
しかし、東京でもゴルフは再び個人戦で開催されると決まったのは少し残念だった。
この先、2度目の代表入りの可能性については「想像もしていない」と、今年47歳は笑うが「ゴルフで初めて五輪を経験した者として、今後なんらかの形でかかわっていければいいな、とは思っています」。
コロナ禍で、男子ゴルフも開催中止が続く中、ミニツアーを開催するなど若手救済にも尽力する。
ツアー通算31勝を重ねる永久シードのオリンピアンには、次代につないでいくという使命がある。