ここからは、敬称略させていただく。
杉浦悠太(すぎうら・ゆうた)が、50回大会の表彰式でプロ宣言。
「まずプロとして、1勝が目標です」と、その場で決意表明した。
4差で出て、一度も首位を譲らず、2打のリードを保って入った18番で、ピンそばバーディのウィニングパットを待つ間、福井工業大付属福井高校時代の同級生キャディ、伊予翼さんとなにやら談笑。
「あれでいくら賞金が上がったんだろう・・・。凄いよね」と、同組で回ったナショナルチームの先輩、中島啓太(なかじま・けいた)のバーディ締めに惚れ惚れ。
これから自分も何度でも味わうことになるプロの1打の重みを想像して震えていた。
無事3差で逃げきり、岩﨑亜久竜(いわさき・あぐり)や桂川有人(かつらがわ・ゆうと)や清水大成(しみず・たいせい)ら、大学の先輩プロの祝福でもみくちゃになりながら、スコア提出所に入った。
通算では7人目だが、日本大学の学生が、プロの試合でアマ優勝したのは、史上初の倉本昌弘(くらもと・まさひろ、1980年中四国オープン)に続く2人目。
「ずっと目標にしていたので本当に嬉しいです」と、浸る間もなくスタッフに取り囲まれた。
本大会をアマで出場した杉浦は、優勝賞金4000万円は受け取れない。
でも、この場でプロになると決めるなら、V副賞の「メルセデスベンツ EQS450 4MATIC SUV」や、宮崎牛一頭分など、豪華賞品はいただけるという。
「ぜひ受け取っていただきたい」と、主催者さんからの申し出に戸惑った。
もともとは次々週にQTサードも受験するつもりで、近々の予定ではあったが、すぐこの場で、となるとは思ってもいない。
父親には「ユウタがなりたいと思うときになればいい」と任されていた。
「でも監督には一度聞いてみないと・・・」と、本人が言うが早いか、スタッフが和田光司・ゴルフ部監督にその場で電話。
「いいよ、ぜんぜんかまわない」とあっさりと返ってきた。
それよりなにより「人生、変わるぞ」と、教え子の快挙に興奮していた和田監督。「来週も、再来週も、出てまた優勝しちゃえ」と、本人以上に前のめり。
恩師の威勢に押されてすぐその場でプロ転向届けにサインした。
杉浦プロの誕生である。
「3日目の朝から緊張していて。今朝もゴハンが入らない」。50回目の大舞台でプレッシャーをはねのけた。
11番のダブルボギーと12番のボギーで2打差に詰められ、「一番狭い」と、畏れる14番のティショットは恐怖で震えた。
でも、「ドライバーを持って行かなきゃいけない。本当に自分を信じて打つことだけ考えた」と、自分の弱さにも打ち克った。
「私は80を切ったことはない」と、笑うゴルフ好きの父・博倫(ひろみち)さんの手ほどきで3歳からゴルフを始め、小学6年間は少年野球との二刀流。
どちらも手を抜かなかった負けず嫌いの頑張り屋さんだ。
お父さんが自宅の庭に作った“鳥かご打撃場”と、お手製のグリーンを練習場所に、小学校低学年ですでにお父さんのベストスコアを抜いていた。
石川遼の史上最年少優勝に憧れ、石川主催のジュニア大会を制した会場で、生リョウくんに祝辞をもらい、大喜びしていた少年が、ビッグタイトルを手にしてプロの一歩を踏み出した。
左林に入れてボギー発進した1番のグリーンサイドでは動揺もプレッシャーもあるだろうに、随行のボランティアさんに気付いて「宜しくお願いします」と、スタート時にしそびれたご挨拶と、握手を交わす様子に、実直な性格がにじみ出ていた。
表彰式後に取材に応じたお父さんは、ジュニア期から息子の成長に合わせたクラブフィッティングに、ついに最後まで無償で対応してくれ、将来のマスターズ出場を楽しみにしながら亡くなった、地元愛知の恩人を思って目を赤くしていた。
1985年の12回大会で、大会初の日本人Vを達成した中嶋常幸が「けれんみが、ないのがいい」と大会初の杉浦のアマ快挙を表した。
「けれんみ=外連味」は、歌舞伎用語から派生し「奇抜さやごまかしで、客を喜ばせる演出」が元々の語源という。
杉浦にはそれがない。自然体。だからいい、と中嶋は言った。
お父さんは、次週にもデビュー戦に挑むであろう息子に贈る言葉として、「楽しくやれよ、楽しくやれば、多少つらくても乗り越えられる」と、ひょうひょうと言った。
親子揃ってけれんみが、ないのがいい。