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「優勝しようと思って来たんです」ランク2位の水巻善典ファイナルQT決勝ラウンド最終日

2003年にシード落ち。そのときポツリと、「目標が見つけられなくなったんだ」とこぼした水巻はそのあと約1年半、日本ツアーから姿を消した。

ツアー通算7勝。シード権も、初シード入りを果たした89年から守り続けた。
93年には念願の米ツアーに参戦。メジャーにも出場した。
20代、30代のころには抱えきれないほどあった夢。

「それらをまんべんなく経験していくうちに40歳を過ぎて、次は何を目指してゴルフをすればいいのか。どうやってモチベーションを保てばいいのか、分からなくなってしまったんです」。

押し寄せる世代交代の波。
一時は「若い子たちを育てることが、俺の使命」と考え、若手の指導に力を入れたこともある。
「その分、自分のミスにはなんだかヘラヘラしちゃったり・・・」。
そんな自分に、心底嫌気が差したのだ。

昨年6月に復帰を果たすまで、トーナメントや試合の類いには、いっさい出場しなかった。
アメリカに渡り、たまにテレビ解説の仕事などしながらほとんどの時間をフロリダに住む家族と過ごした。
十分すぎるほどの充電期間が、そのうちひとつの事実を水巻に伝えてきた。

「俺には、ゴルフしかないってこと。もういちど、一所懸命やれることが欲しくなった」。

戦いの場からいちど完全に身を引くことで、逆に火がついたのだ。

最近、めきめきと実力をつけつつある長男・賢人君の存在も大きかった。
「ハーフでハンディを2つもあげると、もう苦しい(苦笑)。子供には負けたくなかった。サッサと抜かれていくだけでは、悔しくなった」。
家族水入らずの生活を続けたことで、かえってツアー復帰への思いは強くなっていった。

昨年、ファイナルQTへの参戦を決意してからは人が変わったように練習に打ち込んだ。
いざ本番は当初の予定どおり競技が成立せず、約3ヶ月後の再開が決定されると、今度は2006年度のシーズン開幕を見据え、ますます精力的にラウンドをこなした。

ファイナルQTは、賞金がかかったれっきとした“トーナメント”だがほとんどの選手には、「まずはツアーの出場優先順位を決める大会である」という考えが頭にある。
だから無理をして大量アンダーを出そうとしたり、優勝しようとしたりする必要はない。そんな余計な重圧をかけるゲームプランを立てるより、「まずは、確実に今季前半戦の出場権が得られる30位前後に入る」というのが大前提だからだ。

だが、そんな中で水巻はきっぱりと言ったのだ。
「優勝するために、ここに来た」と。
そのくらいの気合が持てなければ、日本ツアーに復帰するという考えにも至らなかっただろう。

残念ながら、最終日に67をマークしたミノザには大きく突き放された。
優勝こそ逃したものの、水巻は最後まで同じ最終組の前田雄大らと熾烈な2位争いを演じてみせた。
たった1打に熱くなり、がむしゃらに勝利を目指して戦った。

1打リードされて迎えた最終18番で、前田がボギーを打った。
これで、前田とはトータルスコアではタイとなったが、ツアーの出場優先順位は第5と第6ラウンドのスコアを足したもので決定される。
水巻の第5、6ラウンドのスコアはいずれも70。前田は73と70だった。

とりあえずはランキングで前田に勝って、嬉々としてスコア提出場に入ってきた水巻は、アテストもさておき、一目散に成績表のところまでやってきた。

通算9アンダーで上がった選手は、水巻と前田だけだった。
確認するなり、無邪気に叫んだ。
「やったよ、俺が2位だ!」。

4月の開幕戦・東建ホームメイトカップで、いよいよ本格復帰を果たす。
「今年は優勝するよ。それも1回だけじゃなく、ね」。
いちどは消えかけて、再び点った戦いの炎は、シーズンに突入後にますます勢いを増しそうだ。

写真中=「首位のミノザ(右)をどこまでも追いかけていくつもりだった」という水巻。6番で迎えた10メートルのバーディパットは、先にミノザがもっと長い距離を決めていた。「それで余計に力が入って、たまたま僕も入っちゃったよ!」。“最終日最終組”で、優勝争いを楽しむ余裕も

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