Tournament article
キヤノンオープン 2010
横田真一が13年ぶりのツアー通算2勝目
グリーンサイドで泣きじゃくる妻。夕子さんが、胸に飛び込んできた。
「パパ、頑張ったね、おめでとう、おめでとう!!」。
ただ黙って両腕で、しっかりと抱きとめた。夫の目にも、とめどなく涙が溢れた。夫婦の抱擁は長く続いた。
細川と、兼本の猛追を振り切った。賞金ランク1位の石川遼も、ふるい落とした。前夜から降り続いた大雨で、スタートが1時間50分も遅れた最終日。
「このまま中止になってくれ」と、本気で祈った。3日目に首位で並んだ石川と、谷原秀人と3人のプレーオフでの決着なら、最低でも2位タイが約束される。たとえ賞金加算が3日間の75%でも、「900万円は上乗せて、シードが取れる」。そんな胸算用もむなしく、最終ラウンドは9時50分のスタートが決定すると、溜息ばかりがついて出た。
朝の雨がウソのように、戸塚に澄んだ青空が広がるにつれて「僕の心もブルーになった」。
しかし最後は遠くの富士も、くっきりと顔が覗いた鮮やかな夕焼け空の下、心もすっかり晴れ模様。栄冠を独り占めに出来た今は、つくづくと思う。「今日は中止にならなくて良かった」と。
デビュー年から11年間守ってきたシード権を失ったのは2006年。選手会長は、2期目の悲劇。当時は女子ツアーの“藍ちゃん”ブームに押され、「男子はテレビの視聴率が1%という時代」。
スポンサー離れも懸念される中で、人気回復に奔走した。「それがみんなのためになるなら、と思った」。自分のことはさておきオン・オフ問わず、自らスポンサーを駆け回り、複数の新規トーナメントにこぎつけた。
と、同時に賞金ランキングは76位に転落。
そればかりか翌年の出場優先順位を決めるファイナルQTにも失敗した。「人生初の挫折」だった。
横田の選手会長としての労をねぎらい特例で、シード権を与えるという話が持ち上がったのも、このときだ。賛否両論が飛び交う中で、本人はちぎれる思いでその申し出を蹴った。
妻の夕子さんは、「断る理由が分からない」と激怒した。「受けるべきよ」と丸一晩、説得されて正直、心がまったく動かなかったわけじゃない。
「あれは人生究極の選択だった」。
すんでのところで踏みとどまれたのは、プロゴルファーとしての誇り、父親の自覚。
講演会や、行く先々で訴えてきた。「ゴルフは数あるスポーツの中でも唯一、自分が審判です」。受ければその言葉を、自ら覆すことになる。長男・知己くんにも「父親として、どういう生き様を見せたいか」と考えたときに、答えはひとつしかなかった。
1980年は静岡オープンで長谷川勝治が記録した13年2ヶ月と21日に次ぐ、史上2番目に長いブランクの末に掴んだ2勝目で2年間のシード権を得て、「あのとき断って良かったと、いま初めて思えた」との言葉に、当時の激しい心の葛藤が見えてくる。
茨城県・水戸市の水城高校から専修大に進み、94年にプロ入りした。アマチュア時代からスター街道を歩み、タレントの夕子さんと結婚したことでテレビの露出も増えて、その知名度の高さから「あのころは自分でも、もう何勝もしているかのような雰囲気を醸し出していた」と、自嘲の笑みを漏らしたことも。
しかし、シード落ちをして改めて気づいた。「自分はまだ1勝しかしていない。しがないプロゴルファーだ」。自分を見つめ直してスイングを、体をいちから作り直した。シードを失い、ゼロからの出発で、本当の自分を取り戻した。そんな努力の数々を「神様は見ていてくれた」。優勝賞金3000万円は、シードを落とした2年間を補ってあまりある。
この「キヤノンオープン」も、横田が選手会長時代に奔走して誕生したトーナメントのひとつだ。今年は開催直前に、嬉しい言葉を聞いていた。内田恒二・代表取締役社長が、「来年も大会を開催しますよ」と、約束してくださったのだ。「それが何より嬉しくて」。選手会長時代の思考回路はいまも健在。
夕子さんが惚れ込んだのも、他でもないこの部分。「主人は人が良すぎて、いつも他の誰かのことばかり。でもパパとしては最高だからと、最近はもう優勝も諦めていましたので」。
夫も「こんな日が来るとは。夢にも思っていませんでした」と、仲良く口を揃えた。愛する妻の前で初めて披露した優勝シーンは、結婚10年目のメモリアルV。今でも恋人気分の円満夫婦は、最後は互いに労りの笑みで見つめ合った。