Tournament article
中日クラウンズ 2011
岩田寛が単独首位に
「・・・どうも僕のパットは雑らしくて」。
開幕戦では早々に、4パットを2度も経験した。この日はホール宇アウトに近くで練習していた松村道央にも、岩田が「お先に」をして打つ距離は、「僕なら必ずマークします」と言われた。
「マークしてまた素振り、というのが面倒くさい」と、岩田は言った。
これに激怒したのが、タッグを組んで4年になる専属キャディの新岡隆三郎さんだ。
「それは逃げだ」と厳しく言われた。「短い距離を真剣にやって、外れるのを怖がっているだけだ」と。
「この言葉にハっとした」という。猛省して「今日は短いパットを真剣にやりました」。1番で、2メートルを沈めてバーディ。2番では、奧から12メートルをねじ込んだ。
その一方で、13番パー3。7アイアンでピンそば50センチにつけたバーディチャンス。本音は他の選手のプレーを待たずに「お先にをしたかった」。いつもの欲望をこらえ、「我慢して、マークして、素振りをして、打ちました」。
最後まで丁寧なプレーが結実した。
「下半身の使いすぎ。ミート率もめちゃくちゃだった」というスイング面も、このオフの調整が成功して、不安材料は見あたらない。
「準備は整ったかな、と思います」と、普段無口な30歳が、珍しく言い切った。
さらに「今年勝てなかったら一生、タダの人だと思ってます」。
悲願のツアー初優勝にむけて、ただならぬ覚悟は故郷・仙台への愛がそうさせている。
「夜、寝る前とか、思い出すたびに泣きそうになる」。
東北福祉大時代にゴルフ部で競った同級生の奥さんと、お子さんがあの大津波にのまれた。奥さんは、痛ましい姿で見つかり、お子さんはいまも行方不明のままだ。
3月11日。岩田は沖縄のオフ合宿から帰る機中にいた。大震災は、このとき東北を襲った。飛行機は再び沖縄に引き返し、そのまま約半月、戻れなかった。
「というか、戻らなかったんです。帰れば僕一人分、また水が必要になるので」。
4月初めにようやく宮城県は仙台市泉区の実家にたどり着くと、震度6の余震が襲った。
「凄く怖かった」。この数倍以上も恐ろしい思いをした人たちが、いまも過酷な状況の中で暮らしている。岩田は、仙台空港に駐車していた愛車が海に流されたが、比べものにならないくらい、かけがえのない何かを亡くした人たちが大勢いる。
「経験した人じゃないと、分からないとは思うんですけど、それを思うと泣けてきます」。一見、冷静に見えて、以外と熱くなるたち。そのせいで、これまでにも幾度か絶好のチャンスを逃してきたが、被災地を思って「二度とキレない」。強く心に誓い、迎えた2011年だった。
「僕のプレーを見てくれた人が、何かを思ってくれればいいなと思う」。
いまも、試合が終われば余震が続く仙台にあえて戻るのは「そこが僕の家だからです。仙台が、いいから。家族が心配だから。どこか他に行くというのは考えられない」。
愛する故郷のために。大切なものを亡くした人たちのために。今も、不安に震える人たちのために。涙をこらえ頂点だけを、目指して歩く。