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とおとうみ浜松オープン 2011

小林正則のツアー初優勝を支えた人々

11歳からゴルフを始め、東京学館浦安高校から名門・日大へ。「学生時代の俺はカス」と本人も言うとおりこれと目立った成績はなかったが、189センチの長身を生かしたその長打力は、当時から際立っていた。

98年のプロテストに一発合格を果たした際にも、スケールの大きさを伺わせるコメントを残している。「あんなの勢いですよ、楽勝ですよ。落ちるなんて意識は俺にない」。
2002年に初シード入りを果たした当時は、「あのウッズにも匹敵するスイング」とも言われた。当然、初優勝も時間の問題だ、と。
前途洋々に見えたプロ人生。しかし、その後わずか2年でシード落ちを喫した。

プレッシャーには無縁とも思えた選手が、精神的なものからくる症状に陥っていた。ショットの際に、手が上がりにくくなるイップスは、ドライバーもアイアンも、パターにおいても、すべての分野で影響が出ていたという。

「ゴルフをやめたい、と思ったことはない」と振り返る。「ゴルフは好きだし。だけど、やってていいのかな俺、というのは何度も思った。情けなかった」。

スランプを極めた小林に、大先輩がこぞってアドバイスを送ってくれた。その潜在能力を高く評価していた大御所たちだ。
尾崎直道には「間を作ってスイングしろ」と言われたが、「そのときは俺、頭がおかしくなっていて。間の意味も分からなかった」。
シード落ち間際に3週間ほどつきっきりで、指導してくれたジャンボ尾崎には「お前にはタメがないんだ」と言われたが、やっぱりそれも理解出来ない。

直道やジャンボが何を言わんとしていたか。ようやく腑に落ちたのは、それから9年もたってからだった。
日大の4つ先輩の金坂文夫さんに1年ほど習ったのは2009年。「体重移動とか、クラブの下ろし方とか」。聞いているうちに自然と偉人たちの言葉を思い出し、それらが「ひとつひとつ結びついていき、自分の中でようやく整理が出来るようになっていった」という。

ベテランの水巻善典から声がかかったのもそのころ。2日目がサスペンデッドとなったある大会で、翌朝は残り2ホールを消化した末に予選落ちを喫した小林に、「練習場で待っている」と、水巻は言った。「僕のほうからは、何も言わないのに水巻さんは、ことあるごとに電話をくれたり、酒飲み相手になってくれたり。水巻さんがいなかったら、僕の心は折れていた」。

2005年から3年間は、ツアーで1銭も稼げない不遇の時代を経てやっと掴んだ栄冠は、何かと目をかけてくれた恩人たちがいてこそだった。
98年のプロ転向から、険しい道を歩き続けた。昨年は、チャレンジトーナメントの賞金ランク3位で再び表舞台に出てきた小林はしかし、そんな苦労を微塵も感じさせなかった。

「お久しぶり」と長身をぺこりと折って、以前と変わらぬ天真爛漫な笑顔を振りまく小林はすでに35歳を迎えていたが、アゴに無精ヒゲを蓄えてもなおどことなく“弟”とか“年下”といった風情を漂わせていて、明るく憎めない性格もまた、先輩たちを「ほっとけない」という気にさせるのだろう。

小林を応援するスタッフや関係者も多く、みな口を揃えて言うのは、「本当に素直でいい子」。どんなに苦労を重ねても、すれるということがない。いつまでも新人のようなみずみずしさは、19歳の石川遼にも負けていないかもしれない。

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