Tournament article
久光製薬KBCオーガスタ 2002
「よい報告がしたかった…」
そして、優勝インタビューの最後に、この人のことに、話が及ぶと、とうとう、堪えきれずに、湯原は泣いた。
「学生時代から、これまで、ほんとうに、世話になった人。今週、なんとかよい報告をしたくて…」最後のほうは、もう、声にならなかった。
大会初日に飛び込んできた日大ゴルフ部時代の恩師、竹田昭夫監督の訃報。4年時には、キャプテンを務め、卒業後も親交の厚かった湯原は、その死を悼み、この日最終日、腰位置に喪章をつけてプレーした。それは、ヘルニアを、患った箇所。湯原がショットを放つたび、そこをそっとかばうように、黒いリボンは、揺れていた。
「来週のお葬式で、この優勝を、報告できる。きっと喜んでくれるはず…」
毎年、竹田監督から届く年賀状には、「年間、最低2勝!」との、書き込みが必ずあった。
「ここしばらく、監督のいうとおりにできなかったから、今年はぜひ、達成してみたいと思う」と、残りシーズンにむけての、目標を語った湯原。
どんなに苦しいときにも、夢を忘れない生き方は、監督から、教わった。
ヘルニアから復帰した翌年、湯原は、さらに、究極の目標をたてている。
それは、5年後の、米シニアツアーへの参戦。
「いつでも心の火を、消さないために・・・。いくつになっても大きな夢を、持ちつづけていたい」。
その思いはきっと、亡き監督の、願いでもある。