記事
トッププロたちが語る、島田名誉会長の思い出
選手時代は関西強豪の地位を二分し、共に数々の死闘を繰り広げてきた杉原輝雄は、島田の現役時代を懐かしみ、「特に、西宮や宝塚(いずれも兵庫県)でトーナメントが行われた際の彼の人気は絶大で、僕らにはそんな大ギャラリーの応援との戦いも強いられたもの」と、ドンならではのエピソードで誰からも愛されたその人柄を表現した。
最後に出会ったのは、昨年7月だった。
新宝塚カントリークラブで行われた関西プロゴルフグランド・ゴールドシニア選手権大会に、妻・和子さんを伴って訪れた。
そのとき、すでに島田名誉会長が闘病中であることを知っていた杉原は、「思っていたよりも元気そうじゃないか」と何気ない風で声をかけたものの、内心は胸が詰まる思いだった。
「きっともう長くはない、と…。本人も、これが最後というつもりで来てくれたのだと思う」。
64歳という年齢も振り返り、「しかし、僕よりは相当若い。責任感の強い人だった分だけ、晩年は慣れない会長職が相当の負担になり、身体を蝕んでいったと思うがそれにしても、こんなに早く逝ってしまうとは…」と、その死を悼み、「せめてご苦労さんでした、と。もう、天国でゆっくり休んでいいんだよと言ってあげたい」と、改めて遺影に向かって手を合わせた。
島田名誉会長が99年に、日本プロゴルフ協会から競技部門を独立させて発足したJGTOの初代チェアマンに就任した際の選手会長、倉本昌弘は「“選手のためなら、僕が身を粉にして頑張る”と言ってくださったから、みんなついて来られた。島田さんだからこそ、ここまでやれた」と生前、ツアー発展に全力を尽くしてきたその功績に敬意を表した。
石川遼が、プロ転向後のツアー初優勝をあげた翌日に息を引き取ったことにも触れて、「救世主が現れた年に亡くなられたのは、何か見えない力があったとしか思えない。僕ら選手が島田さんの遺志を受け継いでいかなければ」と、尽きることのない悲しみをこらえ、前を見据えた。
ジャパンゴルフツアー選手会を代表して、指名献花をつとめた宮本勝昌は、特に初の選手会長に就任した昨年に、島田名誉会長と交わした会話が残っている。
「“宮本くんの明るいキャラクターなら大丈夫。自信を持って、ツアーを引っ張って言って欲しい”と…」。
また、それは島田名誉会長が会長職を退任した時期とも重なって、「晩年にお会い出来たのは、地元のトーナメントだけになってしまいましたが、会場で会うたびに“ありがとう、ありがとう”と、何度も頭を下げて歩いておられた姿が心に残っている」と話した。
「島田さんが築いてきてくださったものは素晴らしいが、本人はまだまだご満足ではなく、志半ばで倒れたことを無念に思っているはず。少しでも島田さんがイメージしていたツアーに近づいていけるよう、僕らが遺志を受け継いで頑張りたい」と、今季2期目の会長職に、決意を新たにした。
谷口徹は自らもツアーの発展を願うあまり、生前の島田名誉会長と激論を戦わせたことが何遍もある。互いに譲らぬ熱弁を振るいながら、しかし「君の言うことも一理ある」と最後には認めてくれたことを、昨日のことのように思い出す。
不器用に正論を吐くあまり、歯に衣着せぬ物言いで、他方面であらぬ誤解を招いてしまう谷口の評判は、すべて島田名誉会長のもとに寄せられた。
そのたびに「言い分は間違っていないけれども相手は年上」などと諭され、「僕と一緒に先方に謝りに行こう」とその手を引き、ともに頭を下げてくれた。
「僕は迷惑ばっかりかけたほうだから…」と、つぶやいた谷口の大きな目がみるみる赤く染まった。
涙を一杯ためながら「最後はいつも、選手の立場に立ってくれた。親のような存在だった」と、ホロリ……。
そして、故人を偲ぶ人々で満員の会場を眺め渡して「僕のときは、きっとこんなにたくさんは来てもらえない。ああいう人にはなかなか、なれない。だけど少しでも見習って、僕も島田さんのような人になりたい」と、遺影に掲げられた在りし日の柔らかな笑顔をその胸に刻みつけていた。