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僕らのツアー選手権 / 初代覇者の選手権「創生編」

島田・JGTO初代チェアマン(左)と森稔・森ビル前代表取締役社長(右)と(©JGTO)
7月の「日本プロ(開催延期予定)」が”プロ日本一決定戦”なら、10月の「日本オープン」は”ゴルファー日本一決定戦”。

そして、今週の6月4日から始まるはずだった「日本ゴルフツアー選手権 森ビルカップ Shishido Hills」は”ツアープレーヤーNO.1決定戦”。
つまり、その年のツアートーナメントで活躍する選手たちの最強を決めるのが本大会だ。
選手たちや関係者が普段、大会を話題にする際には短く「ツアー選手権」とか「選手権」と呼ぶ。

茨城県の宍戸ヒルズカントリークラブを舞台に今年も新たな覇者を輩出するはずだったが今週は、”宍戸の森”も静まりかえったまま。
新型コロナウィルスの感染拡大のため、第21回大会は次年度に持ち越すことにした。
歓声も拍手もないまま過ぎていく1週間にいま一度、大会に関わる全ての人たちに問いかける。

「あなたにとって、ツアー選手権とは?」

第1回大会は2000年だった。それから20年が過ぎた今。
一番に、その答えを聞いてみたい人はもういない。

初代会長(当時チェアマン)の島田幸作氏。
志半ばの08年、11月3日に病いに倒れたレジェンドが、当時、日本プロゴルフ協会(PGA)の組織内にあったツアートーナメント部門を完全独立。99年に、新たな組織として立ち上げたのが、本大会主催の「日本ゴルフツアー機構(JGTO)」だ。
自身もプロゴルファーとして、「日本プロ」や「日本オープン」などツアー15勝を挙げた経験を糧に「世界に通用するツアー選手の育成」を掲げて踏み出した。

その時、島田チェアマンが示した公約のひとつが、今大会の開催だった。
「JGTOが主催する、唯一無二のトーナメントを作る」。

JGTOの発足2年目に、当時のパソコン機器メーカー「イーヤマ」の特別協賛を受けて「JGTO TPCイーヤマカップ」として、第1回にこぎつけた。セッティングやホスピタリティはもちろん、何よりゴルフファンを魅力する興行としても、最高峰のトーナメントを目指して、栃木県のホウライカントリーで歴史を開けた。

天候不順の雷に見舞われ中断や、中止が重なる波乱の展開を制して初代覇者に輝いたのが、伊澤利光だった。

自身のツアー5勝目を契機にその後、冠にふさわい勢いを見せた。
翌01年の4月。マスターズで日本人最高の4位に入った。
あのパーマーが絶賛した。キングの口から「キング・オブ・スイング」と言わしめた男はその年、国内5勝で初の賞金王に。
さらに02年には、丸山茂樹と組んだワールドカップで日本に勝利を持ち帰った。

一方で国内ではその年、ついに未勝利に終わった。
1年8か月のブランクを経て、大会2勝目で完全復活をとげたのが、3回目を迎えた03年の「日本ゴルフツアー選手権宍戸ヒルズカップ」だった。

その年、大会はさらなる隆盛をスローガンに、新たに森ビルの特別協賛を得て、現在の開催コースである茨城県の宍戸ヒルズカントリークラブに会場を移したばかり。
蓋を開けてみるなり、誰もが悲鳴を上げた怪物コースで死闘を制した伊澤。
下から上に突きあげる伝説のガッツポーズでド派手なVシーンを演じた勝者は表彰式で一転、嗚咽した。

「優勝してあれだけ泣いたのは、あとにも先にもあの時だけかもしれません。前々年に賞金王に就きながら、前年は1勝もできずに辛かった。一生懸命やっているのに結果が出なかった苦しさが、勝った瞬間、ドっとこみあげたと記憶しています。コースも大変難しかったですし、苦しいゲームに勝って5年シードのメジャーで復活できたということにもまた、喜びが増しましたね」(伊澤)。

その年、2度目の賞金王の座についた。そこから一気にツアー通算16勝を数えた。
シニアデビュー参戦2年目の昨10月には「福岡シニアオープン」でシニア初V。
「チャンスがあれば、レギュラーツアーでもう一度頑張ってみたい」。
今も夢を追い続ける52歳が、01年に1年で稼いだ2億1793万4583円は、今も歴代1位である。

「いつか、世界にも通用するトーナメントに」。JGTOの初代会長が、壮大な夢を抱いて創設したツアープレーヤーNO.1決定戦。
その初代チャンピオンで、大会史上ただ2人の複数年V者。
ツアーきってのスインガーと称された男。
伊澤利光にとっての「ツアー選手権」とは?

歓泣(かんきゅう)です。『歓び、泣く』と、書いてください。特に2度目の優勝は、泣けるくらいに嬉しかったので…」。

僕らのツアー選手権。僕らの1週間が始まる。
  • 去年のシニア初Vは、息子がキャディをしてくれました。

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