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杉原輝雄氏のお別れの会を実施
広いホールにさえ飾りきれないほどの遺品と同じく、多くの人々の心に刻まれた故人との濃密な思い出は、どれも語り尽くせないものばかりだった。1000人を超える参列者が、別れを惜しんだ。杉原輝雄氏の死去で、史上6人となった永久シード選手。その全員が、遺影の前に顔を揃えた。ジャンボ尾崎、中嶋常幸、尾崎直道、倉本昌弘、片山晋呉、そして、代表して弔辞を読んだ青木功がポツリとつぶやく。
「杉さん、寂しいよ・・・・・・」。
ともに戦った日々の記憶は「言い尽くせないほどある」。中でも一番に思い出されるのは、プレーオフで争った76年の東海クラシックだという。「絶対にゴルフを捨てる、ということをしない人。あの気迫はすごかった」。その選手に競り勝てた。ひとつ大きな自信となった。「あそこから、俺のゴルフ人生が始まった気がしている」と、青木はいう。
不屈の精神。身長160センチの小柄な身体で自分よりも大きな選手にも、平然と立ち向かっていった。ジャンボは「俺にいち早くライバル心を燃やしてきた人が杉原さんだった」と、振り返る。
どんな不利な状況にも、絶対に勝負を投げない。底なしの粘り強さから、「マムシ」の異名を取った。「僕も同じ愛称をいただきましたが、僕は杉原さんの足元にも及ばない」と、直道も生前を思い返して舌を巻く。
「0.1%もないくらいの可能性でも、夢を追いかけていた。勝負師として、羨ましい人生を送った人」と、ジャンボ。「ゴールは遠い。目標は高く持ちなさいと言われた。あの人ほど努力した人を、僕は知らない」と、中嶋も声を揃えた。
倉本は「鋭いまなざしには不屈の精神力と、勝負に対するこだわりがみなぎっていて、どんな大きな外国人選手さえたじろがせた」と、弔辞で読んだ。
その分、ファンに見せるまなざしは、ことのほか優しかった。「ファンあってのプロ」が口癖で、真剣勝負の最中にもギャラリーの輪に割って入るサービス精神で喜ばせた。「ニコッと笑った瞬間に、少年のような澄んだまなざしに変わり、周囲を魅了した」(倉本)。
いつも率先してサインペンを握り、あたりに落ちたゴミを拾って歩き、自らプロのお手本として若手にも遠慮なく苦言を呈した。「よく怒られた。マナーを教えられた」と、苦笑したのは中嶋だ。片山は、「僕がいつも言われたのは、率先して挨拶をするように、と」。愛してやまないゴルフ界を思えばこそ、憎まれ役も進んでかってでた。倉本も「小言ばっかり言われてにくたらしいと思ったこともあったけど。今になってみればこういうことを伝えたかったんだと分かる」と失って、改めてその存在の大きさが身に迫る。
98年に前立腺ガンが発覚したが、手術はしなかった。「メスを入れればツアーには出られなくなる」と、頑として現役にこだわった。生涯最後の真剣勝負は病いとの戦い。「命を張った勝負には勝てなかった。本当に悔しかったでしょう」と、故人の無念を思いやった倉本は「しかし勝てなかったものの、杉原さんが負けたとは、けっして思っていません」。
2006年のつるやオープンで達成した68歳での世界最年長予選通過に、2010年の中日クラウンズでは、世界最長となる51回の同一大会連続出場記録。
打ち立てた数々の金字塔も、自分らしく生き抜いたという点で、杉原氏が人々の心に焼き付けたものはあまりに大きい。「大切なのは、生きて何を成し遂げたかです。杉原流を貫くための道は、一本しかなかったのだといまは理解出来る」と、倉本は言った。
84年に創設された選手会で、初代会長をつとめた杉原氏。命のバトンは確かに受け継がれた。今季、13年ぶりに選手会長に復帰した倉本は「偉大なるドン杉原の生き様は、プロの鑑として私たちの心にも刻まれた」と、その決意を新たにした。
「飛距離の差なども頑張ればやっていけると本当の意味で、人々に勇気を与えた人。これからは、俺の生き様を見守ってください」と言って、ジャンボは遺影を仰いで手を合わせた。
「杉原さんから受け継ぎたいのは、長くゴルフをする、好きでいる姿勢」と、片山は言った。
「俺も杉原さんのように、死ぬまで現役でいたい」と青木。「俺や後輩たちに大きな目標と壁を作ってくれた。杉原さんが蒔いた種は大きく育ち、俺や後輩たちに受け継がれていきます。思い存分に大好きなゴルフをしたら、俺もあとから追いかけるから。天国にゴルフ場を作っておいて下さい」と、弔辞を締めくくった。