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山下和宏が夢と現実を語る・・・!!
スタッフが教室の黒板にあらかじめ、年数を打っておいた“人生年表”。その節目節目に伝道師が、主な出来事を板書しながら自らの来し方を語っていくのが常だったが山下は、最後までチョークを握らなかった。
黒板に向かえば、子供たちに背中を向けることになる。そうやって、一方的に自分の人生を語ることに、抵抗があった。
「出来れば、子供たちと対話しながら進めたい」。
生徒数が数百人を超えるマンモス校ならそれも難しいが、同校は全校生徒を合わせてもわずか23人。
さらに、講義に参加したのは春に卒業を控えた6年生と、5年生の計9人。
講義の直前に、給食を共にしたのもこの9人。
「いただきます」の合図から、講義は始まっていたも同然だった。
担任の小槌晶乃・先生が、まさに関西ノリでその場を明るく取り仕切り、最初に自己紹介で一巡したあと、さらにそれぞれが将来の夢をみんなの前で発表し、続いてプロへの質問コーナーに突入し・・・・・・。
「ご飯をおかわりするつもりだったのに、その余裕もないくらい子供たちとのお喋りが弾んで。次に予定していた“5時間目”はもうこれで十分では、と思ったほどでした」と、山下は笑う。
だから、始業のチャイムのあとの「夢を持とう」の講義もその延長線でスタートした。
一度も黒板を振り返らずに、山下は語り始めた。
サッカーに夢中だった小学生時代。出身の大阪府高槻市の町内会で、野球部の監督をつとめていた父・文誉(ふみたか)さんの願いを汲んで、野球に転向した中学時代。
しかし、レギュラーになれなかったのを機に心は当時、友達と始めたばかりだったゴルフに傾いていったこと。
「いま思えば野球はどこか“やらされている”という気持ちが強かったんです。だから、楽しくなかった。練習にも何の工夫もしなかったし、ただ漫然と続けていた」。
その反省が、ゴルフに生かされた。
子供たちに打ち明けた。
「今の智恵を持って野球を続けていたら、そこそこやれたのではないか、という後悔も少しあるんです」。
そんなふうに、常に子供たちの反応を見ながら授業は進んだ。
高校卒業後、現在の所属先でもある兵庫県のザ・サイプレスゴルフクラブの研修生に。
「3年もあれば、プロになれると思っていた」。
実際は7年かかってデビューを果たしたが、そのあとさらなる苦労が待っていた。
稼げない時代が長く続き、いざツアーに出てられても予選落ちばかり。遠征費を捻出することさえままならなかったこと・・・・・・。
「1試合で交通費とか、いったいいくらかかると思う?」と山下。
「うう〜ん・・・。100万くらい?」。
「それは・・・ちょっと高すぎるかなあ」。
「じゃあ70万?」。
「40万円くらいじゃない?」。
言葉のキャッチボールをするうちに、夢と憧れだけにかたどられていたプロゴルファーという職業の現実が、子供たちの前で浮き彫りになっていく。
2007年にチャレンジトーナメントランクは7位で翌年の出場権を獲得。2008年に念願の初シードを獲得し、そして昨季は9試合でトップ10入り。賞金ランキングは自己最高の18位につけたが、これまで36年の人生の“ハイライト”はあえて詳しくは語らなかった。
「シードとか、そういうツアーのシステムはみんなには分かりにくいんじゃないかなと思って・・・」。
それよりも、強調したかったのは「スポーツであれ、勉強であれ、目の前のことに一生懸命にやり続けること。その結果はすぐには出ないかもしれないけれど、いつか必ず生きるときが来る」ということ。
そして、これからの自分の夢。
「僕はまだツアーで優勝したことがないんです。2位は1回あるけど、それは優勝とは大違いの差があって。ゴルフで生活出来ることは幸せだけど、そこで優勝出来たら、もっと幸せな瞬間が訪れると思う。今年、それを味わうことが出来たらいいなと思っています」。
夢実現のために、常に自らに課している座右の銘を、子供たちにも披露した。
45分間の授業で山下が、初めてチョークを握った瞬間。丁寧にこう書き留めた。
「焦らず、騒がず、凪(なぎ)の心で 山下和宏」。
子供たちは早速ノートに書き留めながら、
「なぎって何?!」。
「どういう意味なの?」。
口々に飛び交う疑問に、改めてその言葉への思いを強くしながら山下は質問に答えていった。