Tournament article

日本オープンゴルフ選手権競技 2011

復活を狙う、佐藤信人が単独首位に

雨雲が連れてきた重く湿った強風は、地を這い、林を抜けて、選手たちを翻弄した。2011年のゴルファー日本一決定戦は、日に日にアンダーパーの選手が減っていく。初日の14人から2日目は10人に。そして、平均ストローク74.875は、3日間でもっとも難しいコンディションのこの日に、とうとうたった5人に。

その中で2位に2打差の通算6アンダーは単独首位に、「自分のこととは思えない」と本人が、一番驚きを隠せない。「今日は特に後半で、気持ち悪いくらいにパットが入ってくれた」とは、過去のツアー通算9勝で、再三繰り返してきたセリフでもある。
かつて優勝会見に座るたびに佐藤は言った。「パットのおかげで勝てた」。
それほどのパット巧者がイップスの症状に襲われて、長く苦しみ続けてきた。
「それが今日は、信じられないくらいに良く手が動いてくれた。出来過ぎの1日」。
11番で8メートルのパーパットを合図にきわどいラインも、長い距離のバーディパットも、面白いように沈めてみせた。

「13番はすごい下り。カップの際が斜めに見えた。外せば1.5メートルは行ってしまう」。7メートルのバーディパットは「当てるだけ。いわゆるバントして打った」という。

さらに15番の3メートルは、「入る確率が低い。すごく切れるスライスライン」をしのいだ。17番は、5メートルのバーディパットも淀みのないストロークでカップに流し込んだ。控えめな笑みと、ちょっぴり遠慮気味のガッツポーズも片山晋呉と谷口徹と、賞金王を争った。2000年、2002年。もっとも勝ち星を稼いだあの頃と、どこか重なる。

今はシード権はおろかツアーの出場権すらなく、本人には「いつだったかも思い出せない」。今回は実に3年半ぶりの優勝争いが、「喜びであり、苦痛でもあり」。この日もスタート前から、さまざまな葛藤と戦った。
「緊張して、風も強くて。出来れば中止にならないかな、とか」。
それでもあわやOBの3番で、パーを拾ってひとつ、流れを作ると体の底から込み上げてくるものがある。

「忘れていた優勝争いの感覚。自分がいま、こんなところでプレーが出来るだけでも素晴らしい」。

勝てば先週の久保谷健一と、くしくも同じ9年ぶりの復活Vだが久保谷とは「質が違う」と佐藤は言う。久保谷は「常に上位にいて、いつ勝ってもおかしくなかった9年だったが、僕はプレーも出来なくなるほどひどかったので」。

パットの不振に一時は「ウツかもしれない」と打ち明けた。一番最後のシード年は2008年。「あのころは病んでいた」。第2の人生さえ考えた。どん底から不屈の精神で、這い上がってきた。もがき続けてついに不惑を迎えて悟ったことは、「逃げないこと。何事も受け入れること」。

メンタルトレーナーの岡本正善氏のアドバイスで昨年から、パター練習で道具や練習器具に頼ることをやめた。以前は試合中に、練習みたいに打とうとしていたが、いまは逆に普段の練習で、手が動かなくなったことを思い出しながら打つ。あえて自分にプレッシャーをかけて打つ。
「そんな練習をアホみたいに繰り返すことで、イップスとも向き合えるようになった」という。

完治はしていない。それでも、いまはたとえV争いの最中にまた手が動かなくなったとしても、じたばたしない。「かっちかちに動かなくなったとしても、それで明日、負けたとしても、自分を責めたり過剰な対策に走ったりしない。やせ我慢じゃないけど、平然としていればいつか修正していけると思っているので」。

これからも、持病の腰痛とともに、長く付き合っていく覚悟だ。
「明日も厳しい1日になると思うが、ティショットが曲がっても、3パットしても、勝てなくてもいいと思ってプレーする。出た結果を受け入れる」と、決めている。

ここ鷹之台カンツリー倶楽部は千葉県・幕張の実家から車で20分。ロープの外には、幼なじみや昔なじみのご近所さんの顔が無数に見える。「そんな見えない力が働いていて、今週は頑張れる」。地元の声援を、力に変える。

関連記事